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井の頭の冬の夜空。夜空の写真はバカチョンデジカメでは難しくて撮るのに情熱が必要だ。
埴谷雄高が毎日ここを歩きながら作品の構想を練ったらしいが、ぼんやり歩きながら考えるのも好きだ。空はいつも、こだわりなく姿を変え、二度と同じ相を見せることはない。いつの日か、あの空のように、こだわりをなくして生きるようになりたい。













欅 ------------------------------------------------------------------------
ケヤキの向こう とは、東京競馬場の3コーナーと4コーナーの中間あたり(実際はスタンドからの見た目よりも、わずかに4コーナーに近い)の馬場内にあるケヤキやエノキやシラカシの群生した杜(mori) の向こう側のこと。伝説の大ケヤキは1970年代に台風で倒れたが、ふつうのケヤキが今も立ってる。中距離レースの三分三厘の勝負どころで、昔からファンに“欅の向こう”と語り継がれてきた。
あそこで一呼吸入れて仕掛けていった名馬の数々。。。今では競馬文化のなかの一つの詩語となった感があるが、中村勝五郎のジョセツ、田中角栄のマキノホープ、そしてサイレンススズカといった美しいサラブレッドたちが、夢破れ脚折れ たおれてしまった あつい地点でもある。
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(ネット検索して無思慮で引用する人が多い寺山修司の馬場内の話は、わたしの調査では完璧ではありませんでした)
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府中に対する思い入れはエッセイをご覧ください。
「ケヤキの向こう」という名のホームページで、自分の life work を恥ずかしながら展覧するのが便利であり 夢でした。散逸した原稿も多く、今のところ時間も足りず、全部は まとめられませんが、『サラブレッド配合史』の御愛読とあわせて、永遠に完成を目指し続けるわたしの 飽くなき成長の一端を、御笑覧ください。
------------------------------------------------------------------------ 欅





 ケヤキの向こう 
ケヤキの杜は、3コーナーよりも4コーナーに近いのですが




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笠 雄二郎 (りゅう ゆうじろう)
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サラブレッド血統研究家 [評論家で日本で10人くらい] & 予想法研究家。

法律データベースの校正チームのチーフ [判決全文校正者は日本で30人くらい]。校正チームのチーフとしての手腕は日本でベスト10くらい。

ときには相場師 [90年代の大暴落で儲けたのは国内で、わずか数人]。

(特殊技能を複数持ち、それを仕事にしてしまっていることを
   説明なしで見抜けた人は親戚も含め、親友以外は、今まで誰一人いない)


団塊の世代・第一次受験戦争の世代なのに、学校の勉強は、算数の九九(小3)、鶴亀算・流水算(小6)、因数分解、英語の基本(中1)しかやってない。受験勉強も就職活動もせず、暇さえあれば本ばかり読んで生きてきた。地図帳を見るのが趣味だから地理は自然に頭に入っていて、受験校でも勉強ゼロで毎年2位だった。

単なる趣味人

あるいは、わたしにとっての職業とは、わたしの叡智と、使うことのできる時間の範囲内で、世間に貢献できる全てのジャンルのことを言うのであって、ほんとうは名刺に、作家の人のように、「笠 雄二郎」とだけ書くのが正しいと思っている。

 2016年製 
職業が2つあるから名刺も2つにした



◇中学が新聞部、高校が文芸部、大学が映画監督志望、アルバイトが英字新聞社、並行してシナリオ研究所卒業、初就職が競馬新聞社。3回転職して活字の世界を転々。何かを制作したり書いたりしたかったのだろう。

  (ハーバード大学でプロジェクト・ゼロ(Project Zero)と呼ばれる
  素晴らしい研究にあるように、子供は誰しも潜在的に才能を持ってい
  る。それを社会や親が、20歳までに丁寧に磨滅させてしまうのだ。)

◇映画監督志望→競馬研究家&編集者、と大目標は変化した。

◇1984年に34歳のとき、それから34年後に中古書店で1冊149,989円を記録する、難解でシンプルで本格的な血統の著書を、借金して自費出版で5500円という高い定価で世に出した変人。

◇生涯に、世界に対して負けないと信じる血統論を、4回も書いて、血統論ブームを興した。

  「研究とは他の誰も見なかったことを見、他の誰も考えなかったことを
  考えることである」(アルバート・セント=ジェルジ)

◇1986年に編集・校正業で、当時は珍しい在宅勤務を始めた、それも法律の〈デジタル・データベース〉の校正部門を、チーフとして携わった、新時代の創始者でもあった。

◇1989年にUNIXのコンピュータを使って、ほとんどのテクニカル・チャートの、受け売りでない個人的なシミュレーション研究をしていた、おそらく日本でただ一人の個人投資家。

◇わたしの配合論のキイである〈全兄弟クロス〉や〈4分の3同血クロス〉を持つG1ホースが、『サラブレッド配合史』出版後、数え切れないほど続出したことを、誇りに思っている。





 30歳頃、若いなあ 
1980年前後、30歳頃、府中のケヤキをバックに




 羽根木 
2015年、昔住んでいたあたり・世田谷の羽根木公園にてパチリ






2019年。50年前の下北沢の下宿仲間。右から2人目は大腸ガンを克服したシンガポールで自分の会社をやっていた4連単の鬼、このHPによく登場した、わたしが生涯出会った最強の雀鬼・T森。左から2番目は、枠目論研究所の所長を頼んだ『サラブレッド配合史』第2版の校正で間違いを直してくれた灘の英才バンカーM行。一番左は故郷の風早(合併前の北条市)の俊才で、6年くらい生徒会長をやっていたジャズを教えてくれた超高度なジャズ狂、脳梗塞で倒れたが快復。ガンで現在入院中のM教授は不参加だから、他の4人で会う。




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少食& ほぼ(ゆるい)ベジタリアン=腸内細菌叢・氣道や皮膚や口内の常在菌との共生論者。
牛乳・乳製品や品種改良された小麦、足のついた動物、なるべく白砂糖、遺伝子組換え食品を避ける。パン、コーン、ジャガイモも、ほとんど食べない。果実・野菜だけの「ゴリラ食」と自分で名付けた食生活をしてきた。2020年に新型コロナで、コメ、緑茶カテキン、海苔を摂るようになった。野菜といっても生野菜はほとんど食べない。

化学物質がアレルギーで、子供時代からアナフィラキシーショックを何度も経験し、兄と違って西洋医学を、なるべく避けている。20代で東洋医学の出版社を手伝ううちに、漢方薬や鍼・指圧の素早い効果に惚れて熱愛するようになる。当時のほぼ同年代の著者は40年後に針灸学会会頭となり、なおのこと東洋医学に傾倒し、不要な化学物質を年々摂らないようになる。

麻(リネン)愛好者。

平和主義・個性愛好者。
勲章なし、前科もなし。
この世に生まれて、おぎゃあと言った途端に、死刑判決を受けた。でも、
ずっと、執行猶予だ。そのうち、あの世から呼ばれて、
永らくの眠り(永眠)を することになっている。でも、
それも、ほとぼりが醒めたら、
また、この世に戻ってきて、違う人生を歩むことになっている。


左翼でも右翼でもない中道。好きな言葉の1つは「中庸」。
全共闘世代で、デモにも行ったが、政治やイデオロギーには興味が湧かなかった。支持政党さえ、持とうと思ったこともない。
カトリックの中高6年制の学校を出たが、宇宙の不可思議性・絶対性は信じざるを得ないと思ったが、宗教というものには興味が生じなかった。
人それぞれでいいのだ。

趣味が広汎で、雑学が多くて、生活スタイルの拘りを貫いて生きてきて、仕事が意外なことに家でやる仕事で(日本一の編集プロダクションは仲間で資本金を出し合って作った職人ギルドみたいなもので、株主で社員であっても、単なる雇われではない)、おまけに2種類(裁判の校正と、血統研究)も3種類(相場も入れて)も、複雑で個性的でややこしいが、複数の一人前の仕事をこなすので、外から見るとパッと見ではほとんど理解しにくいらしいが、自分では呼吸と同じで飽きるほど(とほほ)単純極まりない生活を続けている。


 薩摩焼

祖父が鹿児島から熊本に養子に来るときに持ってきた薩摩焼寿官造の十六羅漢壷
床の間に置かれていた
(骨董品の写真は弟のブログより拝借)




1986年から家で仕事するから、8年住んでいた世田谷では、昼すぎ店に立ち寄ると「編集者ですか?」とか近所の人に言い当てられたが、バブル崩壊後の21世紀の世相になると、井戸端会議で近所に広報してくれる家族もいないし、通勤しない人だから、北の拉致の工作員ではないかとか不審者通報されたり(お巡りさん連れて夜遅く、家に、調べてくれと近所の人が、2つの町で来たことがある)、仕事の曜日のスケジュールの問題で(締め切りだけ守れば良い仕事だから)、週末に家で仕事して平日午後の好きな時間に出かけたりするから、こういう珍しいケースが出てきたが、なんてことはない、家で仕事しているだけなのだ。

クリエイティブな脳波を維持するためには、図書館に行ったり、公園を歩いたり、お茶を飲んだり、雑踏を見たり、音楽を聴いたり、美石を買ったり、いろいろな行動で1日を埋め尽くさないといけない。そういうことに携わったり、理解できない人には、わたしの行動を、何千日経っても理解することはない。その径庭は文化の違いでしかない。

妻子がいれば近所と交流する中で、説明が広まっていくから、どうということはないけど、独り者は、ちんどん屋みたいに背中に紙に書いて歩かなきゃ、どうしようもないかな(笑)。50字くらい書いて理解できるほど単純な生活でもないんだけど。

あの人はいつも家で、パジャマやスウェットで出てくると、配達関係者で警察へ通報した人がいる。なんで、家で仕事してネットスーパーで買い物行かない生活しているのに、タイムカード押して、ネクタイ締めてスーツで机に向かわないといけないのだろう。警察の人に言われました「なんだ、家で仕事しているのですか。じゃあ、毎日パジャマでもいいじゃないですかねえ」だって。あほらし。

校正の仕事だから、競馬の記事は他人だろうとか、競馬の仕事だから裁判の校正なんてウソだろうとか、あのですね、仕事は2、3種類あってもいいのです。マルチ・タレントといって、小椋佳なんか銀行員でシンガーソングライターでしたし。3万人に1人くらいかなあ、けっこうそういう人いますけど。

机に一日中、向かっていると頭の中も身体もカチカチになるから、井の頭公園や相模湖などに、しょっちゅう通うと、近所の人が電車で、何やっているのだろうと、交代で尾行してくるし(見に来ても池を眺めながら、ぼんやり血統や予想理論の構想を練っているだけだから、単なるアホ扱いされる、とほほ)、ケータイやGPSで、最高裁判決でも違法なのだが、追いかけ回す人も多い。「家で仕事しています」と自己紹介すると、えーっ、仕事してたんですか、と、驚く人もいた。でも、べつに、人間はメシ食うために仕事するから普通なんですよ。

東京は年々、中小店舗が激減していっているが、それでも21世紀になっても、世界の都市で超ダントツに中小店舗の多い希有な文化的な町なのだ。趣味人には、格好の生活場所だったのである。

通勤しないけど、氣持ちも身体も疲れるから、三鷹時代は早起きして校正片付けて、氣晴らしで毎日午後は出かけたら、駅やカフェのトイレは年齢的に大のほうしか使わないこともあって、なぜ、あの遊び人は、いつも大に入って何をしているのだろう? おかしいな、と思う人もいた(座ってしたほうが汚れなくて、きれいでしょう)。氣にしている若い人に説明したら、「まさか」だって。やれやれ。まさかw 


家で仕事するといっても、締め切りさえ守ればよい仕事ばかりなので、タイムカードで拘束されているわけではないし、締め切り仕事だから、締め切りは大事だが、いつ何をしようと自由なのは助かります。

氣分転換で外へ出て競馬の研究や仕事をしたりした。時には逆に、家で資料抱えて競馬の仕事をしないといけないときは、氣分転換で外へ出て、いろいろな町に行ってカフェで編集の仕事である裁判の判例データベースの校正をしたり。まあ、その日の氣分で、いろいろだ。最近はあまり出かけないなあ。どこかの町の活字が読める明るいカフェまで出かけて行くと、なんであそこまで行くのだろうと、人が尾いてくる。だって、毎日12時間同じ椅子に座っていたら、1年で4380時間座っていることになる。身体や氣持ちが固まるでしょうよ。座ったことないから理解できないって? 

1995年以降はインターネットで、それ以前だって、パソコン通信や、直接相手の会社のサーバーに通信ソフトでログインしたりして、家から原稿送れたんですよ。知りませんでした? そういう、パソコンがどうしようもないほど簡単になって、しかも2万円で買える時代になっても、それもやらないから、わかんないという人に、いったい、どうやって説明するんですか。3時間、説明し続けでも、わかってもらえんかな。

わたしは一昔前は、除湿機とかエアコンとか、タイマーかけて点けたまま出かけたのだけど、そういうのは、なかなか理解されないが、タイマーって便利ですよ。え、エアコン点けて家にいるふりしてアリバイ作って、泥棒でもやりに出かけているのではないかって? ああ、それで駅まで追いかけてきたり、「あれ、どこへ隠れた。あいつは怪しい」とか呟くのだね(笑)。もっと、普通の発想をするように努力して、タイマー設定の勉強でもしてくださいね。そんなこと、警察に言うから、あちらもたいへんですからね。
(最近数年は、月曜に発売の競馬週刊誌を買う日は出かけるが、交通が不便な場所になって、月曜が主になってしまって、あまり動かなくなってしまった。2020年はコロナ自粛で外出はなるべくしないようになってしまった。やれやれ。)。

まじめな善い人でも、誰かに、そそのかされたようで、わざわざ聞いてくる。お店で買い物して、「これからどちらにお出かけですか」「新宿御苑か井の頭公園」「何するんですか」「気分転換とか頭のお休みとか」「そんなとこまで電車賃使っていかなくても、そこの角に児童公園ありますよ」「あのねえ・・・」とほほ。あほらし。そんなことが年に何度も。

出かけると言っても趣味のない人や在宅勤務が理解できない人には分からないらしい。東京中の校正ができるほど明るい喫茶店探しで、あちこち50軒くらい。映画館は、名画座や、3本立ての3番館となると、新宿、三軒茶屋、二子玉川、池袋、有楽町、赤坂見附の近くの草月ホール、神保町の岩波ホールなど。ジャズ喫茶は「My Favorites 」に書いたように、北は宇都宮から南は横浜、西は国分寺まで昔は50軒ほど。国立博物館は上野、国立公文書館は竹橋、国会図書館は議事堂前。鉱物ショップは原宿か御徒町か新宿紀伊國屋。ミネラルショーは新宿か池袋か浜松町。パソコン周辺機器は秋葉原。落語は新宿末広、歌舞伎は東銀座。古本屋は神保町、新刊本は紀伊國屋は新宿と国分寺、三省堂と書泉は神保町。各科医院は名医を選ぶから、南千住、白山、明大前、町屋、南古谷、旗の台、蒲田、目黒、新松戸、千葉。競馬場は、府中、船橋法典、大井、川崎、浦和、船橋。碁会所は、三鷹、水道橋、有楽町、中野、西荻窪。母方のお墓は大塚から都電。よく通った公園は、新宿御苑、井の頭公園、浜離宮、昭和記念公園、相模湖、狭山湖、小金井公園、大宮公園など。よく通った景勝地は、小田原、筑波山、渡良瀬、大宮、高崎、館山など。かつての住まいは、東長崎、大泉学園、目白、調布、世田谷松原、新松戸、白山、流山、三鷹、阿佐谷、池上。かつての職場は、水道橋、駿河台、渋谷、新宿御苑前、日本橋、銀座、神保町。かつてのバイト先は、後楽園、田町など。かつての学校は江古田、南青山。懐かしの通りを訪れるのは、銀座、渋谷、原宿、お茶の水、芝浦、三田、南青山、豪徳寺、下北沢、調布、府中、目白、北千住など。

普通の人より趣味が多く、閃きが多く、町歩きが好きで、友人や行きつけの場所が多かったから、ときどき今でも、「いつも、どのへんへお出かけですか」と聞かれても、どこということもなく、あちらこちら、と答えても意味不明らしい。まあ、何年も同じところに行き続けるわけじゃないから、年によっても違うけど。人生は、趣味が多いほうがよいし、人間の多様性を理解できていたほうがよい、と真剣に思う。

世の中には、2通りの人がいて、首都圏に住んでいても、ほとんど近所しか出歩かない人と、いろいろ出歩く人と、2種類に判然と別れている。前者の人は、残念ながら、文化や人間性の多様性への理解力に乏しい。



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 和氣

空襲で焼けなかった生家(1970年頃に建て替える直前)と、
前の田んぼ(早春はレンゲ畑になる)。
春は田に水が入る頃、垣根に白薔薇がいっぱい咲いた。




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1950年3月9日、愛媛県松山市、瀬戸内の海の近くで生まれる。
魚座、B型、下弦の月の2日前の生まれ。
体内に1kg、2000種類くらいいる細菌たち(腸内や口内や氣道や皮膚)とのプロバイオティクス・共生主義者。


人は皆、天に生かされている。
必要なものは地球に備わっている。 好きなことだけやって生きてきて、しかたないから、それを複数の仕事にして生きてきた。

太陽光は、抗ガン作用 & 免疫ビタミンD自製 & 腸内細菌活性化。
医食同源・根野菜愛好。免疫力には緑茶・昆布・腹式深呼吸。
千島学説・生薬・指圧・中国鍼を愛好。


趣味・・・
   映画1500本、ジャズLP3500枚、クラシックCD600、
   書物濫読約4000冊、詩誌「解纜」同人、
   (バレエ以外の)すべての芸術に接すること、

   相場、 相場のテクニカルチャートの研究、

   囲碁5段、将棋初段、トランプの「こんちくしょう」の熱狂的ファン、
   89年からのPCマニア16台目(2014時点)、元DOSキチ、

   年中無休で仕事や研究をしているので、歩きながら眠ってしまうことも。

   同居人:ときどき、ジャンピング・スパイダー、

   鉱物コレクター、
   好きな鉱物:地球、シトリン、ルチルクォーツ、
    サンストーンアイオライト、
      (本、LPレコード、鉱物はエイヤッとほとんど全部手放した)

   中日ドラゴンズ応援団長(団員ほか1名)、
   ホッカイドウ競馬サポーター会員番号No.01074 サポート馬:コスモバルク、

   森林浴、海水浴、空や海や樹と接すること、花を活けること、
   呼吸法、体操、サンゲージング、健康法の研究、
   写真撮影、喫茶店通い、画廊巡り、街ブラ、ふらっと海を見に行く、など。



☆最期の日までに1万回聴きたい曲・・・モーツアルト「クラリネット協奏曲」
☆臨終で言いたい言葉・・・「ただいま」

☆最期の日に食べたいもの・・・カレーそば、海鼠

☆モットー・・・ simple is best.
☆死ぬまで好きなもの・・・地球、太陽

☆やりたかった職業・・・ドキュメンタリー映画監督、カメラマン、雑誌編集長、
              ヘッジファンド運用責任者、プロ囲碁棋士

好きな古典・・・老子
尊敬する人・・・仁義を曲げなかった無名の人
何かを学んだ人・・・まず多くの芸術家、そして勝負師やスポーツマンなど
              持てる才能の極限まで生きた人たちすべて。


誕生日が1週間以内に近接している人たち・・・
武豊、岩田康誠、細江純子、岡田繁幸、
渥美清、吉永小百合、松田聖子、アインシュタイン
ライスシャワー、ヤマニンウエーブ、ベガ、シンボリルドルフ、ハイセイコー


○笠一族
笠智衆(映画俳優・小津安二郎作品、山田洋次の寅さんシリーズ全篇など)、笠信太郎(朝日新聞論説委員・経済評論家)、笠りつ子(女子プロゴルファー)、笠浩史(神奈川県衆議院議員)、笠太郎(漫画家)、笠陽一郎(医師)、笠康三郎(園芸評論家)、 歴史書の古代では、笠国造、笠臣、笠朝臣、笠宿禰など。


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 鳥たちよ 元氣でね 


 元氣でね 


 地球よありがとう 

窓から毎朝、餌を撒くと、いろんな鳥が集まってくる。(流山)
メジロ、ヒヨドリ、スズメなど。畑に撒くとキジバト、キジなど。
タヌキや野ウサギも顔を出したりした。
(2013/1/28 の日記を参照されたし)


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2つの仕事を(血統研究者を72年から、編集者を75年から)、テキトーでなく、きちんと完遂し(87年からは相場繁忙時は相場師にもなるので3つ)、どれも通勤しないで家で仕事しているという、建物の外の人間からはほとんど理解されない在宅勤務の生活スタイルを86年から続けてきた。

年中無休で仕事するのが好きな、エコ超まじめ変人人間。常に同時に2つくらいのことをやりながら、別のことを頭の中で研究したり思索したりしている。

ギャンブルが肌に合わない(相場をきちんと張り、ちょっと馬券を買うだけだが、それは趣味や投資でありギャンブルとは思っていない)。風俗遊びができない。

学生時代はバイトの行き帰りにほとんど毎日いろんな町のジャズ喫茶に通った。個人でLPを買えるほど裕福な時代ではなかったから、どこの町にもジャズ喫茶があった。そして20代の転職時に登記所や市役所や特許庁に書類持って外回りする仕事をやっていた。在宅勤務になってからは夕方に氣分転換で出かけた。だから、関東一円のほとんどの町を誰よりも知っている。誰よりも愛着を持っている。シャッター街になるまでは、個性的で活力があって、ほんとうにすばらしい町ばかりだった。

TVは時間がもったいないから若い頃からほとんど見ない。通算で27年間は、競馬と大事件以外は観ない生活をしていた。某民放がオウムの麻原のサブリミナルを放送時間内に堂々とやっていたのがばれて以来、TVはアレルギーになった。今は見ないで少し聞くだけ。映画のビデオや漫画を見ない。

掛け布団は夏羽毛と、ウール毛布と、アルミとレーヨンとポリエステルを織り込んだものの3つだけ。整骨の科学的な根拠を元に、敷き布団は使わず、薄手の汗取りパッドのみ。枕は、バスタオルをグルグル巻いてゴムバンドで留めて、ピロケースで包んでグルグル巻いた長い棒状の手作りものだけ。普通の掛け布団と敷き布団と枕は、捨てて、今は使っていない。



シャンプー(ボディソープで洗う)、リンス(なし)、ボディソープ(石けん成分のみ・合成界面活性剤なし)、手洗い・うがい(水のみ)、洗濯槽クリーナー(日立洗濯槽クリーナーSK-1、効果一発)、タオル(竹繊維、竹に抗菌効果あり)、手ぬぐい(麻か、年始挨拶用の超薄120匁)、洗浄クレイ(ガスール、パリでセレブに人氣、化学成分は当然ゼロ)、ヘアブラシ(竹ピンブラシのサンエア、天然の竹で静電氣とかおかしなことなし)、ヘアクリーム(SUNSTAR・VO5ブルーコンディショナー少量、白髪隠し効果)、歯ブラシ(SUNSTAR・GUM #166M)、歯磨き粉(自作=重曹+海塩)、枕(自作、横長棒状。60×120cmのバスタオルを丸めで、幅広輪ゴムで止めて、64×43cmの枕カバーで包む)、鞄(genten、品がある)、帽子(grace、麻か麻綿、デザイン力)、ジャケット(麻か麻綿)、腕時計(YUNGHANS、チタンは渋い)、電氣スタンド(バイオライト、交流直流変換で朝日の光を実現)、オイルヒーター(PHILLIPS、無音無風で給油もしない)、シェーバー(PHILLIPS HQ6090/A、とことん壊れない)、空氣清浄機(ダイキン・抗菌抗ウイルス・脱臭)、エアコン(日立、カラッと除湿。冷風完全ゼロで除湿)、冷蔵庫(ペルチェ式電子冷蔵庫・ほぼ無音。無印良品)、カーボンファイバー超軽量折畳み傘 UVION SELECT 直径85cm (東レ、世界最軽量109g)、モバイルPC(自作改造、WindowsCE でなくDOS で boot)、衣装ケース・収納ケース(無印良品)、色紙・厚紙類(LoFt)、GABA、重曹(弱アルカリ効果、抗真菌剤、清掃)、タウリン(恒常性維持機能、脳や網膜や心臓を中心にすべての細胞に存在する)、麻の実油(γリノレン酸)、ピーナッツオイル(レスベラロトロール=抗ガン、抗血栓)、プロポリス(林原生物科学研の水溶性プロフィーラ・抗菌)、アルタンノロエース(ノロなどウイルス死滅効果)、洗剤(海へ+重曹orクエン酸、柔軟剤とか不要・肌に悪影響もなし)、風邪薬(クラシエ銀翹散、一服で著効。葛根湯・冷えの初期のみ。麦門冬湯・空咳や心肺)、SBパクチー(重金属デトックス)、ブルーライト遮光レンズ(飛蚊症がアッサリ消えた)、ぶどうジュース(毒素排出、ダイエット)、ゼラチン(タンパク質、ビタミン強化)、箸(本紫檀 Indian Rosewood=すり漆)、納豆のタレを捨てて入れるもの(パクチー、ニンニク、大根下ろし、バジル、タイム、パセリ、アボカドオイルなど)など、研究し選別し愛用している生活雑貨がほとんど全部他人と違う。


基本的には子供の頃から嫌いな食べ物は1つもなかった。酒・タバコ・カフェイン(コーヒー)は若い頃に断った。砂糖の摂取は脳のシナプスに悪いのでなるべく避ける。辛すぎるものも避けている。白米、乳製品、白砂糖、白い精製塩の4白を摂らない。

コメ、コーン、ジャガイモ、四つ足の肉、脂身、魚(の、ほとんど)、乳製品を食べない。
コーヒー、タバコ、酒は飲まない。カフェイン、炭酸、歯磨き粉もやめた。
精製塩、白砂糖、人工甘味料、果糖・液糖などの異性化糖(なるべく)、遺伝子組換え食品、検索して不審な保存料や着色料、フッ素を摂らない。


アブラナ科などの葉物・生野菜、芋などの根菜類、バラ科などの果実・ナッツ類、バナナ、ゼラチン、納豆などの菌類、ピーナッツオイルやヘンプシードオイルやアボカドオイルなどの、酸化しにくい不乾性植物油が主食だ。たまに、一部の魚や、鶏のむね肉を食べる。
健康診断を一切断り、ムダな放射線検査を断り、中身の不明なワクチンを接種せず、歯に水銀が溶出するアマルガムなどの金属を嵌めず、10年に1回くらい病氣の時に血液検査をさせられるだけだが、異常数値は出ない。おかしなものをいっぱい食べて、一生懸命に健康診断に通うほうが氣味悪いと思う。

抗生物質など、ほとんどアレルギーで湿疹が出るので、漢方薬を主に生きている。卵、牛乳、魚の食餌アレルギー、強花粉症もかつては経験あり(民間療法で完治)。リウマチとか膠原病とかの家系だ。おまけに、曽祖父までの先祖が漢方医だったせいか漢方薬や天然サプリや西洋ハーブが好き。医食同源が基本原則だ。20代に東洋医学系の出版社の校正を手伝っていたので、よけいに中医薬や天然の薬用食品が好きだ。地球にはあらゆる治療薬が自然界に備わっていると信じる傾向が強い。健康診断やガン検診や人間ドックなど受ける氣になったことがない。病状悪化でガン検査するよう紹介状をもらっても、無視して行かずに、さあ民間療法をやるかと張り切るくらいだ(他の人にはこういう態度はお奨めしない)。ダメなときは今の肉体を脱ぐだけだ。

子供の頃6年間、山道のマラソンとか夏も冬も毎日走っていたが、3分を超えて走ることが誰にとっても健康に良いとは全然思えない。歩くほうがはるかにベターだ。走るのは毎日3分で十分だ。3分以上走るなんて、ランナーズハイの高揚薬のようなものだと、自分の経験から確信している。歩き方は、日本古来の古武術の、ナンバ歩きなどを実践している。明治に入ってきた西洋流の歩き方はしない。

死刑廃止論者(ただし、裁判の判例集の校正を仕事としてやってきて殺人の刑期が短すぎると痛感する)。支持政党・支持宗教は、なし。相場を張ると、政治は客観的に見て、経済だけ見ているのがいちばんだと思いますよ。

バブルの崩壊の1990年代にも株で儲けた、日本では珍しい投資家。と言っても、妬まれることはあっても、誰も褒めてくれない。運が良かったといえばそうかもしれないが、死にものぐるいで相場張ったのに。


 わたしはわたし 





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笠雄二郎の血統表
┌────────┬───────────┬──────────────┐
│父・不二夫   │宮内文夫 ↓養子に入る │←熊本   ←薩摩(川内) │
│ 松山(和氣) ├───────────┼──────────────┤
│        │笠ツギヲ 松山    │ 熊本(菊池)←遡ると京都 │
├────────┼───────────┼──────────────┤
│        │井上美邦 東京(新宿)│←江戸(上野)←信濃源氏←京都│
│母・美津子   ├───────────┼──────────────┤
│ 東京(下落合)│平山いつ 東京    │←石川 (七尾)       │
└────────┴───────────┴──────────────┘

クロスなし。アウトブリードが2代継続されている。

遡れば、天皇に衣と笠を授かった衣笠氏が九州に流され都落ちしてのち改姓して笠を称したという。
スサノオが蓑と笠を着て神々に宿を頼んだことを解釈して、蓑と笠は本来神聖な「祭祀的来訪者」が着ることを許されると言われることもある(アレクサンダー・スラヴィクなど)。九州に流れた笠の一族は、神官か僧侶か漢方医が多い。


 往診箱
11代目や祖父が往診に使っていた薬箱


サイアーラインは、ほんとうは京都→熊本で、祖父が鹿児島から養子に行っているから、血統表では鹿児島がいちばん上のラインになる。母の父のラインは遡ると江戸時代以前は、(信濃源氏の井上氏)江戸←信濃←京だから、まったくの雑種だ。
顔や体つき・思考力は祖父の鹿児島のラインの、感性は東京の、意地っ張りなところ・底力は東京、熊本、鹿児島の、のんびりしたところは鹿児島の、倫理観は熊本と、母の祖父の母の父のラインの影響を受けているかもしれない。


 懐かしグッズ
薬箱の中にアドレナリンや杏仁水やヘロインまで持って出かけて助けたのだろう。
救急車や救急病院のない明治時代の医者は偉かったと思う。
終戦後のわたしの子供時代でも、火傷や目の患者まで来て、野戦病院みたいだった。



スピードは母系、スタミナは父系からと思うが、詳細不明。走ると、スピードはまったく見劣ったが、山の上の松山城まで登るような山登りコースを走ると、ときどき嵌って別馬のように大駆けした。左回りの急坂のあるコースが好き。

 走った走った
ここは市内の裏手でもあり、当時はビルなどなく、手前の丘と、向こうの城山(日本3大山城の松山城)の中間に学校があって、中高6年間、毎日毎日、雪の日も真夏日も走り続けた。
40分の間に、胸突き八丁の城山の裏の(写真左手)急坂を
這い上がるように登って降りてきて体操して解散までできた。




祖父・文夫は、熊本医学校で祖母と出会い、卒業後、菊池の笠家に、医者の代を続けるために(江戸時代は代々漢方医)養子にいったが、菊池が合わなかったのか?、帝国鉄道院医局助手となり、鉄道病院に勤務して、当時は東洋一の余部鉄橋建設現場医をやった。鉄橋完成後は松山の堀江病院に勤務したあと、熊本から医師の曽祖父・玄雄を松山に呼び寄せて、和氣や久枝や堀江に本院や分院を置き、開業する。当時の人物誌によると「人となり豪快、何処までも鹿島(鹿児島のこと)式の風格を備えたる面白き人物・・」とある。

家の患者さんの待合室にあった火鉢の上の縁に登って、縁の上を歩くのが好きで、4歳の頃のある日、曲芸師風に歩いていたら火鉢の中に顔から落ちて、山ほど赤い炭火が燃えたぎっていて、顔に何年か焼け跡が残っていたのを覚えている。松山沖に来た清の国の船から病人が出て、祖父のやっていた病院に診てもらいに来て、診察の御礼に、鎹(かすがい)継ぎという秘法で火鉢を修繕してくれたのだそうで(火鉢の側面に跡が見える)、我が家が清と交流があったとは・・。後に、父は戦争で中国へ行くことになったが、なんとか奇跡的に生きて帰ってきた。火鉢の縁のおかげか?




祖父の甥は2人ともアメリカに渡り、戦争中は敵国人として収容所で苦労したが、1人は医者として成功し、1人はOTIS・エレベーターの日本支配人になる。


父は曲がったことが嫌いで、医者として ばかまじめな仕事をしていた。野球、遠泳、乗馬、囲碁、鉄棒を好み、京都府立医大を出たあと、長い間、軍医として戦地にいて、戦史に残るほどの非常な苦労をする。二等兵で出征して、中尉で帰ってきた。終戦になると中国奥地から、看護婦は丸坊主にして男装させ、部隊の逃避行をおこない、天津の収容所を経由し、九州上陸時の部隊全員の帰還事務処理までやって無事帰還したあと、何十年経っても御礼の便りを送ってくれたり、看護婦さんたちは四国の家まで訪ねてくださる人たちもいたと、死んだ後に聞かされる。

父は、わたしが中学の頃からアル中になって、家族から無視されて嫌われていたが、わたしだけは戦争体験のPTSDで屈折した帰還兵の父と、胸襟を開いて、ある程度、話し合えたことを人生の誇りに思っている。

終戦後に帰郷して地方で医院をやると、内科小児科に限らず、眼科や皮膚科までやって、レントゲンも自分で現像していた。119番の時代ではないから、全身おおやけどで担ぎ込まれても死なせなかった。同じ境遇の医者の家の友人も、我が家と同じ軍医上がりで開業医院は野戦病院状態だったと言う。よくわからないが、そういうのを見て生きてきたから、わたしの3人兄弟は、誰もリタイアするとか言ったことがないのかもしれない。環境には感謝しないといけない。

母は、東京で一番古い跡見女学校を卒業。学校へ行く朝に廊下に座り四書五経を朗読していたらしい。親戚の家で父に見初められ、松山に嫁いだ。趣味は跡見出らしく、花づくり、短歌、絵画など多彩だった。早朝から深夜まで働き、交通機関がストで止まっても往復14kmくらい歩いてピカソの展覧会とか見に行っていた。

母の父は日本フエルトのサラリーマンで、音楽が趣味でヴァイオリンを弾いたりしていた。
母の祖父は11歳で彰義隊に入って官軍と戦い、後に横浜で株屋をやり、その姉は根岸競馬に通う。

兄・陽一郎は、精神科・内科医。30歳頃から「ごかい」運動などを始めて、医師会とケンカして駅前にタコ焼き屋の屋台を出したりしながら、欧米から2周遅れの日本の精神医学界の改革の先頭を走ってきた。半面、そうとうに偏った西洋薬過剰信奉医でもある(診療は、まったくお勧めしない)。『精神科セカンドオピニオン−正しい診断と処方を求めて』(シーニュ社)などの著書を出して、セカンド・オピニオン活動を始めた奇人。60歳の頃にNHKの(旧版)「クローズアップ現代」から出演依頼を受けるが、その年は病氣で飛行機に乗れなくて断る。

弟・康三郎は、わざわざ北の果ての北海道大学農学部を出て、札幌で、20歳代から主婦の友の「園芸ガイド」や、NHKの園芸雑誌への寄稿で活躍していたし、ノーザンホースパークなどの、北海道の札幌をはじめとする主なほとんどの公園や地下通路などの設計・管理や維持・案内に携わり、北国の植物の園芸評論や造園コンサルタントを、ほとんど無休で頑張っている。共著の著書に、『最新 園芸作業12カ月』(主婦の友社)、『朝日園芸百科 春まき一・二年草、秋まき一・二年草』(朝日新聞社)、『花ある風景』(札幌市教育委員会、「さっぽろ文庫」)など10冊がある。2017年に造園学会賞を受賞する。


 今でもインナーチャイルド 
小学校入学して、弟と、我が家の庭で。
昔の写真をデジカメで再録した。
  弟のブログは「some ブログs」や「リンク」から、どうぞ。




(プロフィールなんてのは、しょせんはクサい作業だが、名前や競馬のことで、あるいは落ちこぼれだ、やれ転職屋だと、蔑まれ白い眼で見られて生きてきた人間は意地でも書くべきだと思う. 苦笑。
 で、子供の頃は御多分にもれず、親に反発しながら自己形成してきた。でも、振り返ってみると、こういうふうなかんじにおいて影響を受け、血を引いているようだ。
 今回、プロフィールを書くにあたって人生を振り返ってみたが、吸い取り紙のように、若い頃はいろいろな親族の趣味や個性、長じてからは自分の経験や出会いが、必然であるかのように絡んできていることが、以前、思った以上に再確認できた。人生って、こういうものなのだろう。)


もちろん、個性の強い人間ばかりの家庭よりも、普通の家庭で育って、普通の学校に行ったほうが楽だったと思いますけどね


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 城北保育園

城北保育園のクリスマス。高校まで一緒だった仲良し3人組。
前列左がわたし。その右が矢野誠喜君で仁方原発副所長をやって2011年に退職。
その右の右が、須賀田農水省競馬監督課長(のちに局長を歴任)。



家が近く保育園から高校まで一緒に通った須賀田菊仁君が後に農林省競馬監督課長をやるという不思議な縁。なんで競馬場の最上階の監督官室で会うことになるんや。その後の彼は経営局長、生産局長などを歴任し、小林芳雄と並び称され、農水省最後のエースと言われ本来は事務次官になる順番だったが、その年に急逝する。

城北保育園はキリスト教系で、非常に個性的で、精神性や芸術性を重視したしっかりした教育方針を持った珍しいような保育園で、全国だといくつかあるだろうが、四国一は間違いないような凄いところだった。小学校があまりに平凡で民度の低い学校だっただけに、この保育園に入らなかったら個性は醸成されなかったかもしれない。

保育園では実質的な園長さんである堀井薫さんに出会ったのが忘れられない。お絵描きは得意だった。お日様を描いたことがないので騒ぎになったと聞いたが、描いた写真が出てきたよw。皆の集まりを天井から見下ろす構図で描いて先生を驚かす。

弟のブログにあった保育園の思い出

小学校に入ると、汽車がカーブを曲がってこちらに真正面に向かう瞬間の構図を書いて、「夏休みの友」とかいう全国の宿題帳の表紙になったが、どうも構図に取り柄があるようだ。

小学生の頃は読書濫読、草野球、海に泳ぎに行く日々。若い頃に乗馬をやってた父と競馬を見始める。将棋や碁や株も教わる。

 小学校

小学校に入ると2年の頃まで、(個性的な保育園に比べて、学校があまりにつまらなかったからだろう)構音障害が生じてカ行の発音がまったくできなくなり、街の保健所までバスで通ってトレーニングして治す。豊田玲子先生にはお世話になりました。ありがとう。もともとかなりシャイだったが、そのせいもあったのだろう、30歳頃まで人と喋るのが苦手だった。それもあって本を読むのが好きになったのだと思う。学校の図書館の本を1日2冊ずつ片っ端から借りて読みあさり、5年までに貸出し冊数の記録を作り、約1000冊超えて読む本がなくなった。

6年時の地元で大御所の担任の先生が、通院が必要だと思うくらい異常な性格の女性だった。氣に入った男の子、近所の男の子、かわいい女の子を自分のクラスに全部集めてしまう。四国電力の社員寮などもあった町なので、いなかの電力会社というとエリートたちだからハイカラな家庭が多かったし、他にも希有なほどステキな女性の多い学年だった。10年近く目からウロコの女性と出会えないくらい、凄いかわいい女の子に囲まれて、日々もみくちゃにされるほど、もてまくる。おかげで、妬んだガキ大将にいじめられて、言語を絶するような壮絶な1年間を経験する。

西日本で2位の中高6年制進学校(学校の教育方針におかしな裏表あり)に進む。受験勉強どころではなかったが、先生に不思議がられたのだが、難問の幾何の問題が、なぜか解けて、200人中187番目で、奇跡的に滑り込み合格した。後年聞いたが、あんなもの二度と解けないだろう。

この学校もキリスト教系で、松山は公立校が半分以下で、多くが私立という個性的な町だったが、校長先生が遠大な理想を描いていて、個性的なエリートを作るといって学校を作り、わたしが10期生だったが、創校時の新鮮な良い雰囲氣が失われ始める過渡期だった。


 修学旅行
中学3年生



中学時代は昼にラジオで株式市況を聴いたりしていた。小学6年のときに買った株は、チャート本の見本になるような、みごとな高値づかみになっていた。小学6年の異常な1年の虚脱・後遺症で、ボケーッと過ごしていた。空の流れていく雲や、海辺の打ち寄せる波を見ていて、いつまでも飽きることがなかった。

クラブ活動は新聞部。授業中に前の席の友人と紙に書いて将棋や碁をやるほど凝った どうしようもない生徒だった。体育の授業中も 並んで走る友と、空で将棋を3二飛車、同角成り、5二銀とか頭の中に将棋盤をイメージし口で言い合いながらやっていた。その空将棋7番勝負は、東大に行った遠藤君に2勝4敗で負けた。登攀記、冒険記、探検記を読み尽くす。毎日、勉強せずに、本を読むか、将棋や碁をやって過ごした。正岡二一先生にお世話になりました。


(校歌。当時は何も考えなかったが記憶している。子供心には染み込むようだ)

瀬戸の潮路に 白南風(しらはえ)渡り
ゆかし古城に 青葉の薫り
頬赤らめし おのこごたちの
燃ゆる瞳は 何をか語る
あーあ、この地より世界の果てに
愛と光を もたらし行(ゆ)かん


高校時代は映画を観たりJazzを聴いたり詩作したり芸術三昧。この頃、本で宇宙の不思議さに強く魅せられるが、理科系がダメで進路は諦める。クラブは友人と第二文芸部というのを許可なく作り、受験教育を批判して雑誌を発行し、教師にいじめられ続けた。特に数学と物理は勉強を拒否し、他も中2から高3まで暗記の一夜漬け以外は一切勉強せず、最後まで自分の哲学を貫いた。何回か白紙答案出したり、赤点が落第規程の2科目あったし、最後の学年末試験は学校へ行く氣がせず、隣町で時間潰していたが、なぜだか卒業できたのは、教師の数人と父が旧制中学の同窓なので、めんどくさい奴だからと、事実上の放校だったのか?、おそらくそうだろう。白紙答案が1科目・赤点が2科目あったわたしは、完璧に落第と確信していたので、ふてくされて大学の受験勉強なんて全然やっていない。受験勉強って何、それ?

中高6年間、粉雪舞う日も、酷暑の日も、毎日、2時限終わると、裸で走ってラジオ体操みたいなことする「中間体操」というのがあった。札幌医大まで行ったM本とわたしの2人だけは、隊列を外れて、大外を凄いスピードで周回していたが、あの頃から隊列組まないのが楽しいということを知った。

ときどき市長候補の噂も流れた日本史の島津豊幸先生に、いろいろな教養を教えていただいた。大学受験勉強は英単語を3日だけやる。高3の冬に起きた偶然で数奇な出来事はいずれ細かく書く機会があるかもしれない。つい近頃になって運命論者になってきたみたいだ。

 “東の道”の向こう
高校2年から2階の部屋に移動するルールがあった。
その窓から東三方ヶ森方向をいつも見ていた。
どんどん詩が書けて、夜も昼も広大な自然の中で、大好きな眺めを満喫した。




本と出会えたこと、友人と出会えたこと、芸術と出会えたこと、これらの力によって、めちゃくちゃな少年時代を生き抜くことができた。ありがとう。

受験は映画館の時刻表を見ながら20分くらいで答案を提出して新宿の映画館に駆けつけていた。早稲田文学部も受験が同じ日で、山手線で高田馬場駅を通過するときに、降りるかどうかめちゃくちゃ迷って、なぜか降りなかった。その年は、わたしが、勉強しなくても読んだだけで自然に暗記できていくという大得意な地理が、鬼のように解ける問題の年で、受験したら、地理と国語で受かっていた可能性が高い。でも、早稲田に行かなくて良かったのだ。早稲田に行ったら、ストで休学の期間もなく、映画やジャズを味わい尽くせなかっただろう。けっきょく、他の大学も合格したが、日大芸術学部に入学して上京した。結果的に、皆の考えとは全く違って最良の結果となった。早稲田は学園紛争が広範囲に拡がってデモの逮捕者続出だったし、それで休学期間もないから味氣ない悲惨な学生生活だったろう。

下宿は、あらかじめ上京して探しておくとかの世間で普通の優雅なスタイルではなく、いきなり東京に、洗面器と座布団を持って(どうしてか知らないが、そういう親だから、笑)出てきて、その日に残り物の最悪の下宿を、すぐ決めて居着く。布団が到着するまでの2、3週間は、手拭いと下着を入れた鞄を枕にして服を着たまま4畳半の板の間に寝ていた。起きて顔を洗う洗面器と、部屋に座る座布団はあったが、カーテンも何もなく、仕送りも少なく、バイトも良いのがなく、食べる物に事欠いて、「ゼロ」という地点を味わった。あの一年は何もかもゼロからの出発だったわけだが、わたしの心は自由と喜びに満ちあふれていた、そして少しばかりの青春のかなしみと…。あの18歳の春がわたしの人生の原点といえる。人生で魂の自由に優るものは何もない。

積年の憤りもあって、若氣の勢いで親に独立を宣言し、仕送りがなくなって自分で働きながら学生生活を送る。のちに親とヨリを戻すが、何年かは下宿しながらの勤労学生だった。そして、入学の春にはいきなり日大の不正問題に端を発した学園紛争に出くわす。クラス委員に立候補するが幸運にもなぜか落選し、イデオロギー化していった闘争が肌に合わず離れる。あの2年にもわたる長期のバリケード・ストは、そのせいで無関係で過ごせた。

幸運なことに、この2年にわたる日本の大学史に残る長い休学の期間は、勉強しないで好きなことに熱中していた保育園・小中高校時代と同じで、再び、さまざまなジャンルの学びの日々となった。毎日のように、ジャズ喫茶と映画館と本屋と競馬場と、友人がたむろする下宿屋と、バイト先を巡り続ける日々だった。

アルバイト先は希有なことで発見した。良いバイトがなく安いバイトを転々とし毎日の食べるものにも事欠き極少食で(朝はマグロ缶詰1つ、昼は立ち食いそば・中身なし、夜は食パン1斤・付けるものなし)、52kgであえいでいたときに、なけなしのお金で初めて買った朝日の3行求人広告で、新聞社のバイトを見つける。完全に採用のタイプではなかったらしいが、人事課長が日大の先輩で、面接の席で話しているうちに、ふっと思い付いたように採用してくれる。後年、あれは採用基準をまったく満たしてなかったのだけれど、こいつは、試しにやってもいいかな、と思ったと言われた。そして、それは、当時の東京で最高に待遇が良いと断言できるような、厚生年金や厚生年金基金まで付いている、ふつうの会社の社員並みに近い、夢のような言うことなしの学生アルバイトだった。

この新聞社「Japan Times」(社主は共同通信社社長でもあった福島慎太郎氏)では、そこでアルバイトの組合を創った田村正敏(後に、あの「勝手連」を最初に作った男)のおかげで(彼は俊才と言えた)、オイルショックの年にアルバイト組合(JT臨労組)の4代目委員長として、スト権確立して、ベア60%増、などという狂乱要求をしたりして、しかし闘争が始まるやいなや急に会社側とめちゃ仲良くやって、狂乱インフレをきれいに凌ぐ。ほんとうに団体交渉で互いに笑いが出るほどの、はちゃめちゃインフレだった。初期の委員長が全共闘の左翼だったせいで、ややこしい組合になりかけていたが、わたしが委員長をやると、漫才的駆け引きと労資協調の笑いと楽しみの組合に変貌し仲間に喜ばれた。イデオロギーに興味が湧かないわたしの個性ではそうなってしまう。福島慎太郎氏は、りっぱな文化人で、アルバイトに厚生年金と厚生年金基金の加入まで実現してくれた。

今でも、アルバイト仲間と同窓会をやって、当時の年輩の社員の人も呼んだりしているが、まあ、わたしたちは希有な変人なのかもしれない。

中学時代から50歳くらいまで、落ちこぼれなのに、どこに行っても、自然に、友人は数え切れないほどできて、いろいろなことを教えてもらえた。これは幸運だった。

 丹沢元湯 
1970年頃、ジャパンタイムズのアルバイトの組合の温泉旅行
徹夜して寝なかった一部の猛者たち(わたしは後列右)




不思議なことに、小学校は毎日図書館、検便のときは新聞紙の上。中学は新聞部、高校は放送部と第二文芸部、弁当を包んでいたのが新聞紙。大学は映画コースとシナリオ・コースと放送学科、合間にシナリオ研究所、仲間と16mm映画製作クラブ、下宿の畳の下に新聞紙。バイトは英字新聞社、詩誌「解纜」同人。就職が競馬専門紙。転職して法律事務所で書類書き。次の転職で東洋医学系の出版社。次の転職の編集プロダクションで新聞・雑誌・出版・デジタルデータベース・チラシなどの制作・校正。遂には、自分の出版社を設立して『サラブレッド配合史』を出版敢行。原稿書いて寄稿するのがスポーツ新聞、競馬週刊誌、競馬月刊誌など。お断りしたのがTV出演と雑誌の編集長。メルマガ発行に、電子書籍も出版。週明けに発売される競馬週刊誌は50年くらい買い続けてきた。家で一度も契約したことないのが新聞の一般紙。TVはほとんど見ないで生きてきた。というふうに、活字やメディアとの関係ばかり続く人生が始まることになる。

下北沢の下宿屋に集まった仲間たち、バイト先の英字新聞社での仲間たちとの5〜6年間の交友は、まさに梁山泊。青春にいて考えられるかぎりの ありとあらゆることをやり尽くした。


 下北沢 
下北沢の下宿屋。毎月、麻雀のタイトル戦「弓削田杯」が戦われ続けた。




映画は多い年で年に300本、ジャズ喫茶でLPは年に1000枚は聴いた。はたち前後の数年間の、この2つの蓄積は、のちの人生に、とくに力になった。

2年のスト休学の間に、南青山にあった「シナリオ研究所」を卒業。なんと、わたしは、血統評論家・山野浩一氏の、そこの後輩になるらしい。

夢であったドキュメンタリー映画を撮ることは未完。

もし、競馬の仕事をしなかったら、
映画を撮っていたか、
相場の世界でストラテジストになるか、
ヘッジファンドの運用をしていたかもしれない。

下北沢に集まった仲間の半数以上が神戸の灘高出身者で、バイト先に横浜方面出身が多かったので、今でも話し言葉は不思議がられるが、標準語を神戸訛りに崩して 松山と横浜と九州のメリハリを少し混ぜている。

血脈も人脈も訛りも影響を受けた文化もわたしは多様だ。嬉しいことに何のこだわりもない。自分の内に瀬戸内海、松山、鹿児島、熊本、金沢、京都、神戸、東京、横浜、ハワイ、地中海の香りが混在し漂っている。

東欧、仏伊などヨーロッパの映画、ラテンミュージックやジャズ、モーツアルト、中学高校の設立母体がカトリック系だったので宗教に対する反発もあって、フランスのカミュやサルトルの、無神論の実存主義哲学に傾倒し、クレー、ピカソ、ゴッホの絵や、とくに日本の詩の影響を熱く受けている。

趣味が多かったおかげで、いろいろな認識や考え方の洗礼を多角的に浴び続けたせいで、政治や宗教には興味が湧かなかった。人それぞれだろうが、わたしの場合は、いまだに、そうだ(やおよろずの神信仰のような神道は肌が合う)。だから、地球の青空や星空や海が好きで、動物と植物と鉱物は全部好きだ(なんだ、地球の全部じゃないか)。

(生家の庭には数え切れないほど多種類の樹や花が植わっていて、弟は若い頃から全国誌に執筆したり、業界の最高名誉の造園学会賞を受賞したが、わたしも自然が好きだ。)

編集者として趣味の多さが重宝されたのは幸運だった。

(趣味のことは「my favorites」「エッセイ」のコーナーをご覧ください)


 のんびりしたとこなんですわ 育った家の近くの海




アルバイト先の新聞社の社員には麻雀、オイチョカブ、競馬狂が驚くほど多かった。いろいろな個性的な人が溢れていたが、彼らに勝負の厳しさや粘り腰を、いやというほど教わった。メディア・マスコミの社風も味わった。

1972年から1973年頃に詩誌「解纜」同人として、詩作と詩の評論を発表。

下北沢に集まったうちの一人、M原は、灘から東大に行ったが、競馬が好きで競馬ばかりしていた。彼のお父さんは大勝負だと府中まできたりしていたが、神戸から新幹線で新橋の競馬会の上にあった軽種馬協会の事務室に輸入牝馬の血統表の本を毎年買いにきていた。彼に誘われて、血統表を眺めて感動する。わたしもまねして買いに行き一氣に血統に開眼する。

血統があまりに好きになって、1974年に友人たちとパーパーオーナーゲーム(POG)をやって、血統の会報誌を作って、そこに〈全兄弟クロス〉とか書き始めていた。

就職は在学中に日本中央競馬会だけ出向いて、なんとなく総務に当たってみたが、「採用する大学は一流のところだけです」と言われて門前払いを食う(あほらし)。他に人生でやりたいことが見つからず大学もロクに行かずに遊んでいた。

何年かかれば卒業できるのだろうなあ・・なんて思いながら、競馬会とTV局以外の進路なんて考えられなくて毎日、落ちこぼれてボーッとしていたら、バイト先の社員の人が、うちの社員になれ、推薦するから社員になれる、と勧められるが、安楽で単調な生涯が見通せるのが怖くてお断りする。声を掛けていただいた土肥課長さんは、シベリア抑留者で、花札のイカサマをやって食料を得て生き延びて帰還した人で、ほとんど無駄口を利かない寡黙な人だった。土肥さんに言わせると、バクチとはイカサマをやっても生き死にが掛かるほどのものをいうのであって、おまえらがやっている小バクチなんか蝿が踊っているようなものだと言われたことがある。土肥さん、ありがとうございます。おかげで、ついに、人生を賭けた命がけの勝負をしております。

アルバイトの組合の委員長をやって、ベアや待遇・労働環境改善要求をまじめに交渉していたから会社に評価されたらしい。社員の人も、組合の要職の人が指導力を見込まれて出世した時代だった。その話に乗ったわたしの後輩(大学中退)の頑張り屋が最後はなんと部長になったから、おそらくわたしも部長まで行けたかもしれない。でも、途中で退屈して退社したかもしれない。新聞社というのは脇道のセクションでも居心地の良すぎる会社で、社員の先輩もやめて外へ出ていって冒険しようとする人がけっこういた。居着いたら、血統なんて書いてないに決まっている。

出席にめちゃくちゃうるさい先生のフランス語が、試験はバイト先のアテネ・フランセから未来社に行ったフランス語ぺらぺらの先輩と、1週間、お茶の水のクラシック喫茶「丘」の最上階の特等室にこもって猛特訓し、テストは完璧にできたが、やはり出席不足で卒業もできそうになかったが、「働いていたから出席できなかったんです」と試験の日に鬼先生に屁理屈言って食い下がったら、黙ってらしたが、後日、見たら、なんと単位がもらえていて、学校のバリケード閉鎖2年を含めて7年かかって、卒業となった。

早稲田に行っていたら、村上春樹と同期(彼は1浪)で、同じ映画演劇科を出て、同じく7年いたかもしれない。理屈的には、村上がアルバイトをしていた水道橋の「ニューポート」で会っていることになる。同時代を生きたせいか、村上の小説は、初期の短編(『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』)だけは、大好きだ。そのへんは、彼の作品を、新人賞で選考した選考委員の吉行淳之介と同意見だ(わたしは吉行のエッセイの熱狂的な読者でもある)。

日芸の性格上、映画は斜陽化し始めていたが、TV局に学校推薦で入りたかった。(卒業できたら必要だった)卒論に書いた『番組編成論』で、当時の低俗な番組編成が人間をダメにすると批判し、これからの時代のTVは、ニュースとスポーツとドキュメンタリーだと論を展開したら、指導教諭に徹底的に好まれなかった。時代はドキュメンタリー以外はわたしの言ったとおりになった。

目指す道も見つからないので、調布の多摩川の河川敷で考えたあげく、自分がやっていけるのは、なんらかの活字の世界しかないと思った。

バイト先の女性社員(バイト仲間と結婚した)が発行した文集「海出のためのピアノ練習」に寄稿して、「何かを書いて、行く抜くための武器としなければいけない」と書いて、村上と同じ志向を偶然していた。わたしは23歳から徐々に、小説でなく、詩と血統論を書いていった。それが、我々の時代のひとつの青春の刻印行動でもあった。

フランス語の先生の氣紛れで急に卒業となったので、就職活動とか全然していなかった。就職活動って、何?  既に3月になっていたので、父の旧制中学の後輩の衆議院議員のコネで、野村総研のシンクタンクに入れたが、そういう裏口みたいなのが燃えない質なのと、自分が仕事して生きていくには活字やメディアの世界でないと氣が晴れないのではないかと思っていたので、バイト仲間が先に入社していた競馬専門紙に就職してしまう。鶏口となるも牛後となるなかれ、と言うし。


 のんきに遊びました 育った家の近くの山




でも、「サラブレッド血統センター」の前身とも言える、その専門紙は、白井新平さんが手放してから血統の専門紙のイメージはなくなり始めていた。
当時で競争率20倍の試験を受けず、喫茶店で『配合史』の草稿を見せて、コネも使ってねじ込み、裏口から専門紙に入社後、浅見編集長に抜擢され、3日目にして印を打ちコラムを持つ。
1975年に前代未聞、当時では考えられない「ナスルーラ3×4」などの表記で、血統・配合から見た予想コラムを書きまくり、コラムの年間的中率6割を達成する。家でも仕事をやったので、朝から晩までトイレ以外は競馬漬けだった。

低収入や会社のポリシーに不満で、わたしはそれほどやめることに積極的でもなかったが、あっという間の勢いというか、主だった人たちが辞表を出すというので、どうでもよくなって、男の友情として24人と一緒に辞表を出す。ほんとうは大川慶次郎さん(隠れ社長)が制止するのを期待していたらしいが、ワンマン会長との板挟みで動けなかった。大川さんは優しい人だから、それを氣にしてたのか、10年後や20年後でもお会いするたびに、Aは元氣か、Bは何をやっているかと、いろいろ心配してくださった。

ともかく、その年のボーナスの額の話が違うと言い始めてから何日もしないうちに、あっという間の、うんざりするような、浪人稼業転落だった。若いから黙っていたが、あれは闘争とも言えないほどの、駆け引きの単純なていのものだった。

競馬の会社を辞めると他の競馬の会社には入れないというおかしなルールが当時あった。競馬会社という特殊な世界を出るとどこにも採用してもらえず、5カ月目に面接25件目で、給料は良いがサラ金の組合潰しの人事部の仕事なども倫理的にできず断って、やっとこさ法務特許事務所に入れた。

当時は、中村雅俊のTVドラマ「俺たちの旅」(主題歌は、銀行員でシンガーソングライターの、二足のわらじを履いていた小椋佳)が大ヒットで、新しい仕事が始まるまで、いつも観ていた。
ドラマは観ない主義だが、一生で、競馬と野球以外で、いちばんまじめに観た番組は、これと、「シャボン玉ホリデー」と、ピーター・バラカンの深夜のドキュメンタリー番組「CBSドキュメント」(TBS,1988〜2010、観ていたのは1992〜1999、0:20-1:15)かもしれない。

資格取得の人の集まりだったが、わたしは資格取得の勉強はしなかった。そこでの4年間は競馬場は皆勤。給料は安かったが残業はゼロだったので、午前から家から直行で競馬雑誌や新聞や本を読みながら、外回りで関東一円を回り、夕方は書類書き、夜はほぼ毎日、家に直行して、ほとんどすべての時間を競馬の研究に捧げた。そのときの2500レースの膨大な分析結果は全部捨てずに持っていて、今日に至るまでずっとそれを折に触れて読み直してきたが、まじめな話、もうほとんど記憶してしまっている。

その時の蓄積が今の予想に活きている。あの4年間の猛烈な研究がなかったら競馬研究家としては息絶えていたかもしれない。仕事の関係で登記所や市役所を回ったので、関東一円のほとんどの町の、シャッター街になる前の大活況の頂点を知っているのが自慢だ。

調布の戸建ての離れに4年いて毎晩競馬の研究をしていたのだが、表の大規模道路工事で、とうとう家が夜中も揺れ始め、当時、ちょうど方位学の本を読んでいたので、名誉名声運を求めて、そのときの名誉運の方位が良い真東の世田谷の松原で電車を降りて探し、借家を見つけて引っ越す。

(あとで考えればめちゃ幸運だったが)原宿の岸記念体育館のカフェで時間潰したり、めちゃくちゃ疲れる仕事なので朝寝坊したりしてサボっていたのが引っ越し直後にばれて、逆鱗に触れ解雇される。

当時は28歳以上の転職なんてアホがやるものというご時世だったから仕事が見つからず、いよいよ山の中で農業でもやるしかないかと思ってタバコ耕作の畑を探しながら、競馬仲間の東洋医学書などの出版社を手伝い、友人のツテが勝手に動いてくれて、最大手で・最も歴史の古い・業界のプライスリーダーで、東京の有名雑誌のほとんどをやっていた編集プロダクションに、なぜだか不思議なことに、あっという間に、紹介の紹介の紹介で入り、雑誌などの編集者になってしまう。

当時は、小門真人の「およげ!たいやきくん」が大ヒットで、毎日、どこの商店街へ行っても歌が流れていた。「まいにち まいにち ぼくらは てっぱんの うえで やかれて いやになっちゃうよ」、頭にこびりついている。

そこは食えない物書きや絵描きがむかしはいろいろいて、小説家の勝目梓も一時いたらしいが、村上春樹の履歴書もあった。

 ゴールデン街
落ちこぼれや文化人の集まり



当時は、大卒→ちゃんとした企業就職、というパターン以外は、落ちこぼれで、新宿ゴールデン街で知り合って、出版社や編集プロダクションに潜り込むか、小説を書いたり詩人になったりという、文化人への再挑戦のコースがあった。タモリなんかもそうだ。山下洋輔、坂田明、三上寛、高信太郎、船戸与一、猪瀬直樹、南伸坊、山本太郎、たこ八郎、俵万智、内藤陳、立花隆などもいた。わたしもそういう意味で言えば、国会議員になってベレー帽で問題になった長谷百合子の店「ひしょう」系の新宿ゴールデン街人脈といえる。ありがたいことです。


超個性的出版社だった刊々堂出版社(上海中医学院の『針灸学』浅川要(当時30歳、のちに針灸学会会長)訳で、日本翻訳出版文化賞受賞)の青木久仁男氏、青木氏との縁を作ってくれた東大を出たのに何か不満があってか日雇い労働者をやりながら競馬場通いを毎日一緒に繰り返し、東大病院のカルテ取り違え事件でリンパ腺ガンが処置手遅れになって夭折した小野田さん、後に陽和病院副院長になるポン友の服部君、日本の古典文学の精髄である笠間書院編集長の橋本孝氏などに一生の恩を抱いている。


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 ジャズ喫茶 new DUG 新しいステージのドアを開けていって



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この編集プロダクションは、校正を主にした、特殊技能の職人のギルド組合で、出版社のアウトソーシングを請け負い社員の福利厚生の負担を減らすというのを謳い文句に、業界最初の船を漕ぎ出して、どんどん成長して圧倒的に日本一の編集プロダクションになっていった。その創業直後の発展期で、今のような無機質でない、しかし新宿ゴールデン街や出版社系人脈の、趣味嗜好の強さが災いしたのか普通の人生路線から落ちこぼれた、しかし読書や芸術が熱狂的に好きな若者たちが集まった、職人編集者の、非常に文化的濃度の濃い集まりだった。

ご自身はお寺の子で若い頃絵を描いていて「坊主と医者の息子にはろくなのがいない」という諧謔的な持論を持つ西峰三景という編集業界のキーマンと出会い、とにかく多趣味で守備範囲がめちゃ広かったせいもあって便利だったのと、その時の校正の腕が今一歩だったので、ありとあらゆるジャンルの出版物の校閲・校正に転々と回されて鍛えられた。おかげで、業界で2人しかいないと断言できるほどの場数をこなす。50種類以上の雑誌や新聞をこなしたときには、某紙で600万字連続・初校見落としゼロなどの腕になっていた。

 編集の仕事のことは「校正」のページに書いているが、最終的に77種類の出版物を経験する。校正チームのチーフは(スキルの足りない若造の新人なのに)、責任感や、マニュアル作りや、人使いが上手だということで、2年目から任されはじめて、5年目以降は主にはチーフしかやっていない。これで得た自信については感謝の言葉もない。

「東京新聞」から始まり、主に、現マガジンハウスのかつての看板芸能誌「週刊平凡」のリライト校正(もの書いてたからリライトができたのと、日芸を出たという縁もあった)、リクルート社、スポーツ新聞の競馬面の制作・校閲(専門紙にいたからにちがいない)、東洋経済新報社の「週刊東洋経済」「金融と銀行」や「会社四季報」の校閲(金融経済が好きなこともあって、東洋経済とは「就職四季報女子版」まで縁が続く)、法律判例DB(データベース)の校正(法務特許事務所にいたからと呼んでいただく)などに携わる。


 ロマンの血統 

1977年の菊花賞は、テンメイ・メグロモガミで大勝負した。血統的には完璧な馬券だったが、2着、3着だった。
テンメイは名牝トウメイの子。
メグロモガミは、母がわたしの好きだった競馬サークルとの人の縁を繋いでくれたカミノテシオの姪だった。

 重厚 


年収1200万円の「ダカーポ」のレギュラーの仕事が決まりかけていたときに、なぜだか突然に派閥の横やりが入って、安価なギャラのスポーツ新聞の競馬面に回される。そこで、時間の不規則な仕事やハードな仕事を続けすぎて体調を崩した。死んでしまっては悔いが残ると思ったのと、人の書いた競馬の原稿を読む毎日に発奮し、一氣に配合史を書き上げることができた。朝近くまでの残業で時間がなくなるが高収入になる「ダカーポ」へ行けなくて幸運だった。本を出した後、健康は快復し始める。人生は目先の金でなく、やりたいことをやっていたほうが運が向くことも多いようだ。

1984.3.9.   1973年(23歳)から少しずつ書き始めた、配合論から見た血統論を配合史をたどることで実証するという、国内外に前例を見ない視点・狙いを秘めて書かれた『(日本)サラブレッド配合史』を1983年9月に書き上げ、レイアウトから装丁から製本材料や紙の選定・運び込みまで、何から何まで全部自主制作で(超多忙な笠間書院の橋本孝氏に3回も貴重なアドヴァイスをいただく)、1984年、34歳で遂に世に出す。定価は5500円という目が飛び出るような常識破りな価格だったが、その価格でないと借金した出版費用が出ないからでもあった。

当時までは、配合論は世界にほとんどなかったし(20世紀の長い空白域だった)、日本には短い示唆ほどしか存在していなかった。“配合から見た血統論”なんてジャンルは戦前に翻訳が出てから存在しないのだから、存在しないジャンルのことに、ただ一人、日夜没入することに興奮と戦慄を覚えていた。おそらく、好きなことに対する長い期間の のめり込みと 啓示のような産物だと思う。なにしろ、ずっと競馬論を考え続けていた。途中に何度も転職したり失業したり、貯金18万円前後の細々とした綱渡りの貧乏生活が10年も続いたが、あまりに夢中に考え続けていたので、貧乏を氣にする暇がなかったのは幸いだった。

5カ月という超特急で制作し、製本が完成して2日後に制作費を貸してくれた父の元にすぐ送り届けたが、その翌日、なぜだか、元氣だった父が脳溢血で急逝する。本に対する言葉は「こんな難しい本が売れるか」だったらしいが、これはシャイな賛辞と受け取った。ありがとう。

 父の葬式
父の葬儀にて、左から2番目がわたし


サラブレッド血統センターの白井透氏は、実績のないわたしの本を出版することに同意してくれなかったが、「種牡馬録」の読者名簿を売ってくださり、推薦の言葉をくださった。ケイシュウで何度かお会いしていた縁だろうか。ありがとうございます。それを東京美術社の最高の印刷技術で、もちろんわたしがデザインしたダイレクトメールの葉書にして、おかげで、高価な本が3週間で完売してしまった。制作には、当時珍しい電算写植や中性紙を使った。装丁の箱以外は、まったく金をケチらなかった。おかげで、その版下で後年、第2版を出すことができ、ひいては第3版、第4版とフイルム撮れば済んだわけだ。いくら貧乏でも、こういうことはケチらない性格だ。

父が亡くなったせいもあって、校正の仕事もしないといけないし混乱していて、スポーツ新聞の執筆はお断りした。中央競馬会の売店でも売っていただいたが、そこから頂いた増刷依頼はあまりに疲れていたので断念した。寄贈した小さな梅ヶ丘の図書館で、初版が3年連続して1週間に1回貸し出しがあったから、刷れば2000冊くらいは一氣に行ったと思う。それくらい、当時の競馬文化の風土は乾き切っていて、読者は渇水状態にあった。



1985、加藤栄、田端到、早野仁、栗山求、望田潤、尾林奉之、桑原拓三各氏など、競馬の物書きを、その後多数輩出することになった競馬通信社の伝説の競馬・血統雑誌「週刊競馬通信」に、当時、熱心に、発行を青木氏個人のガリ版刷りから→紙の印刷化にして、拡大を強烈に意図していった水雲社の熱血漢・伊坂孝史氏や、青木義明氏から参加を要請され、外部執筆者としては、はじめて、佐藤洋一郎氏とともに加担した。当時は競馬会の「優駿」以外に競馬雑誌はなかった。


伊坂氏の尽力が狙いどおりで、競馬週刊誌に連載された五十嵐理論とともに、血統論ブームが起き、競走馬育成ゲームにまで血統ファクターが採り入れられて、その相乗効果も加味されて、世は一氣に血統ブームになっていった。


競馬通信社の、雑誌の執筆や編集に関係していた全ての血統評論家や、読者から評論家になった人たち(佐藤かずあき氏、くりがしら氏、衣斐浩氏)の多くに、『サラブレッド配合史』の血統論が影響を与えたことを誇りに思っている。


何人かの配合コンサルタントをやっている人から、自分のゴーストで書いてくれと言われてお断りする。そういう世界に入っていく興味も失う。



「書斎の競馬」(全号), 「サラブレ」, 「競馬王」, 「別冊宝島vol.187」(ムックでまだ入手できます), 「HORSEMAN'S REVIEW」などに執筆。



著書に『サラブレッド配合史』 1984, 1985, 2000, 2011.
 (初版は、らんぐる社から出版、ASIN: B000J736D2.
   第2版・箱入豪華装丁版は、伊坂孝史氏の水雲社から、ASIN: B000J6P40Q.
    第3版・廉価普及版は、競馬通信社から、ISBN: 978-4-434006289.
     第4版・電子書籍版は、ミエスク社から、出版されました。
          3版までの書名は『日本サラブレッド配合史』です。)

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中古だと定価より高くなることが多いです。初版は定価5500円でしたが、古本屋で最高で13000円というのも見かけました。ネット中古は、もっと高いです(2016年11月\59400)。古本屋のはわたしが買い戻していますが、わたし以外の方は版元などで新品をお買い求めいただいたほうがお得だと思います。(2005年現在、3600部弱、売れて、完売しました。こんな高い定価の本を、ありがとう。)



 らんぐる社時代の名刺 
らんぐる社設立時の名刺



初版を出したわたしの“らんぐる社”とは、名血馬 Quadrangle (4角形)と、夏目漱石の「智に働けば角が立つ」と、クッキー「猫の舌」(フランス語で langue de chat ラングドシャ、langue は言葉の意も)を しゃれたもの。クッキーでも味わいながら小難しい血統論を読んでください。


『忘れられない名馬100』1996
   (共著・100頭の血統批評を担当。学研・絶版)
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『的中へのアクセス』1997(共著・競馬通信社・絶版)
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* 絶版の本は、アマゾンの〈ユーズド(中古)〉で、ときどき在庫が出て取り扱いがあります。
最高価格は、『日本サラブレッド配合史』初版本で、2010年の、¥55000です。ありがとう。

『血統論』2011(ミエスク社・電子書籍)


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1986.6 バブルの頃からは、法律・判例データベースの在宅校正チームのチーフを任される。これが編集の仕事のライフワークとなっていく。当時はわたしも誰も、家で夜間割り増しとかのつかない仕事は大幅な収入減になるから、したがらなかったが、なぜだか、このおかげで、競馬・血統研究や、相場や読書やパソコンいじりなどの自由な時間配分が可能となり、時代の最先端のスキルに、ぴったりついて行けた。この深い意図に感謝したい。

1988.6 空前のバブルのせいで8年世田谷で住んでいた、こぢんまりした2階建ての、夢に出るほどステキな借家の土地が、坪500万になったので、なぜだか、大家さんに独身の娘さんの話ばかりされるほど氣に入られていたのに、息子さんたちにいじめられて追い出される。

バブル相場が動いていたので、(まだ方位学の本が残っていた)投機・金銭運を求めて東北方位が良いので、東北方面へ電車でふらふら行って、新松戸で、電車の窓から駅の裏にステキな樹があったのを見て、ふと降りて、物件を探し転居する。そこでは、翌1989年に近くにできた丸荘証券(のちに金融恐慌で山一、三洋とともに日銀特融を受け倒産)の支店に、珍しく社員兼上得意の顧客用に、UINXのパソコンが置いてあって、株価データが毎日ネット配信で送られデータベース化されるサービスに加入していたので、午後は毎日通って、パソコンの前が定席となるほどパソコンを使わせてもらい、テクニカル・チャートの独自の研究(カスタマイズ)を完成する。
 当時はネット証券がなかったので、店頭に株マニアが集まってサロンを形成していたが、丸荘は2階が地元富裕層の特別サロンとなっていて、そこに入らせてもらってパソコンが使えたし、地元富裕層と皆、仲良しになれた。。支店長と掛け合って、どうしてもと言って、わたしを2階のメンバーに加わらせてくれた鎌田さん、ありがとう。感謝してます。90年のバブル崩壊の株・地価大暴落時に、金利を何度も引き上げ続けた鬼と言われた日銀・三重野三流総裁を呪いながら急逝されたことは忘れられません。合掌。
このいやいやの引越が、なぜだか最高の結果をもたらすことになった。新宿と渋谷の証券会社しか知らなかったので、新松戸に行かなかったら、バブルの崩壊をチャートで的中なんてできるわけがなかった。

そのテクニカル・チャートの研究が1989年7月に、なぜだか間に合ったおかげで、バブルの1990年の崩壊を前年から予測できた。1989年9月の大型株の天井から売り始め、1989年の最終日・大納会が史上最高値。1990年正月明け2日目・日経平均の市場最高値の翌々日に売り始めたら、2月下旬に暴落が始まる。それからは、急落・暴落の底で買い、また上がると売り、その上げ下げを何年も繰り返し、儲けてマンションを99年の最安値の年に、キャッシュで買う(残念ながら、不思議な、じつに不思議な欠陥マンションでしたw)。わたしは人とは考えが異なる宇宙人であり、contrarian コントラリアンだ(ほとんどの期間はトレンド・フォローですけど…)。

1989から1992 までの大暴落の4年間は、相場も仕事とする。
在宅勤務になると、締め切りさえ守れば、何曜日の何時に出かけようと出かけまいと、わたしの自由裁量だから、息抜きの喫茶店通いが激しくなり、通算で10000回は軽く超えている(笑)。喫茶店評論を書いたら誰にも負けないだろう(カフェの最高時は2008年頃で、すこしずつ雰囲氣が落ちていった。今はカフェ通いはやめ)。



金になるかどうか抜きで、独創的な考えの構築に取り組んできたが、配合論や打ち出したいろいろな概念を無断盗用されることがいやで、競馬から離れるつもりで2回筆を折ったことがある。そのせいで、途中から他人の競馬論も血統論も読まないことにした。片っ端から収集していた競馬の書籍はほとんど全部捨てる。血統の後輩がゴミ捨て場まで取りに来て熱心に集めて持って帰っていた。

1989年4月に筆を折って、9カ月後にバブルの大崩壊が起きて、相場に熱中できたのは最高の幸せだった。そのときは夢中でやっていたテクニカル・チャートの研究は、まだ完成していなかった。


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 1998 
1998年頃は、ジャズ喫茶「ふぃあてるぱうぜ」の連中と中山競馬場通い


1992. 200人を擁した業界ダントツの編集プロダクションは、内部の少数派が、筆頭株主の仕事しないで昼間から酒飲んでいた社長を担いで、会社を乗っ取る。多数派は株数が足りないので激怒して別会社を設立する。株主総会の壇上で殴り合いになるという、この内紛は雑誌『噂の真相』にも掲載された。わたしは分裂に反対で、内部抗争支持派だったが、ほとんど味方無しで、数人で残留孤児となるが、動かなかった。
 もう、その時に教養集団& 落ちこぼれ集団の再生& 共生ギルド社会という哲学の、元の会社はなくなって、わたしは法律データベース校正を家でやるチームのチーフとして、会社のことは知らない、を貫くしかないと思っていた。案の定、新会社もその後分裂し、なんの哲学もなくバブル崩壊後は、ギャラの安売りをしないプライスリーダーが、ひたすら複数の会社になって入り乱れ、ダンピング競争に突入していき、役員をやりたがる人が増え続け、本も読まない人たちが次々に入社してくるという時代に突入した。
 その事件以前から既に相場張りながら家で仕事していたので、職場の哲学の崩壊も寂しい思いで、92年8月大暴落の頃など相場中心で、相場がパワーや情熱を注ぐ主体となっていく。

1993. 加藤栄さんがわたしがほんとうに血統をやめてしまって、断筆がほんとうなので(笑)驚いたらしくて、なぜだか、「別冊宝島」の対談の話を持ってきていただいた。加藤さん、ありがとう。


1994〜1998. その「別冊宝島」が競馬通信社にばれて、なぜだか青木さんから、競馬通信社のネット、パソコン通信、fax, Tel などの「マルチメディア予想」に呼び出されて、断れなくて、突然、その週から、いやいやの復帰。全国全重賞&関東全特別の予想をやる。翌年から本誌予想を担当。編集の仕事を続けながら、通算馬連的中率43%を記録する。でもなぜか、この企画は消滅してしまう(なんでや!)。

1995年から2013年末まで、相場やりたくて断っていたのに青木氏に強要されて「デイリースポーツ」関東版に血統コラムを連載することになる。

1996. 電話で町内の怖い人を怒らせ、「今から叩き殺してやるから待っとれ」と言われて、しょうがないから玄関に座って待っていたら、あと50mのところで、その人のお母さんが止めてくれる。おかげで死なずにすんだ。ありがとうございます。

1998年に競馬月刊誌の編集長を依頼されるが、悩みに悩んだ末、お断りする。2年くらいで廃刊となったが、創刊号を見て、やっておけばよかったと思った。時すでに遅し。運を失う。

1999年、コーヒーは20代に、は30代にやめたが、タバコは「いこい」からパイプになって、ショートピースになって、1日ショート・ホープ65本という、いつも指にタバコを挟んでいるという超ヘビー・スモーカーだったが、ヤニが付くのがイヤになって禁煙を断行する。何かをやめようと思って失敗したことが一度もない。

1999. 日本の地価と株を大暴落させて国富1000兆円以上を失わせた日銀三重野総裁の、御子息となぜか同じく同じ頃、キャッシュで買った中古マンションは、じつに不思議な欠陥マンションを掴まされたことが、入居後ほどなくして分かった。こういうことで儲けることは何かあるのかな。それを正直に半値で叩き売って、放浪が始まる。

1999 秋. NYでITバブルが始まると、日本もITバブルになったので、鴎外記念図書館で閃いて、勝負をして大勝。ソニーケミカル(SONYと合併)や、ドトールやパーク24などだった。
これを、また高値で利食い売りして、マンションの損切りを一氣に取り返す。


2000 に、メールマガジン「ホースレター」発行。

2000 に、最高裁判所のホームページの、重要判例集の校正チームのチーフを担当する。人出がとてもじゃないが足りなくて、この世界ではいろいろな仕事をしたせいで顔が広かったので、弊社と裁判までやっている競争相手の会社の役員に頼み込んで、東京の複数の編集プロダクションの一流校正者50数名を集めての、校正の歴史上かつてないほどの壮絶な仕事となった。これほどの大仕事は「読売住宅案内」創刊と並ぶかもしれない。両方とも、わたしはチーフの縁があって読売は断って逃げたが、最高裁は実際にチーフだった。50歳の誕生日は、36時間連続仕事してタクシーで先方へ、締め切り5分遅れでゲラ刷りを届け、徹夜で迎える。


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少年時代は時間軸の始点と、空間の果てが不思議な存在で、宇宙の壮大な美しさと、芸術に魅せられた。今では、血統表のあのなんともいえない美しさや、血統論の構築は、わたしのなかでは美の宇宙であり、予想の印は芸術的な目標かもしれない。そういう意味で、わたしの夢はいつまでも引き継がれているといえる。


 simple is best  シンプルな部屋で、シンプルな氣持で(三鷹)



17歳までは与えられた環境の中で自分の趣向が芽生えた揺籃期、
18歳で上京してからは、自分で選択して、ゼロから しゃにむに、生きていくための仕事のスキルを身に付け、そして感性の土壌を耕す若年期、
36歳からは当時としては珍しい在宅勤務となり、家にいて自由な時間の中でいろいろなスキルを磨いた自由課題の発展期、
53歳で人生観を再度大転換しないといけないことになって、54歳からは目標の完成に向かって新たなエネルギーで生き始める。

とかなんとか言っても、単に運が良かっただけかもしれないのだが。まじめに一所懸命に生きてきたことだけは、たしかですけどねえ。

ビッグサイクルは18年、ハーフサイクルは6年で回る傾向がある。
72歳あたりからは相場と社会貢献がしたい。


というわけで、21世紀に入って、第4の人生の前半のサイクルを開始。不要な物、不要な習慣、不要な感情をすべて捨て始める。エネルギーのすべてを少ない目標に注ぎ込むために。



募金は、アフガニスタンに灌漑をするペシャワール会、モンゴルのウランバートルのマンホール・チルドレンを助ける会、東南アジアの子供の奨学金を支援するダルニー奨学金、Wikipedia、福島原発事故後の福島の子供を助ける会に、支援をしてきた。


中サイズの鉱物・美石コレクターで日本一を目指すが、生活の場で接する趣味のない庶民になにかの新興宗教扱いされて、あほらしくて断念して、ほとんど手放す。美石を、月に1000個として、年に1万個、10年で重複も含めて10万個は見た。数百万円投資していたから、おそらく日本で、中サイズの美石コレクターの5本の指には確実に入っていたと思う。



                *



 リュウという名前だからアジア系だと誤解されて(だからわたしはアジアの他の民族・国民を差別したことはありません)、何かと距離を置いて見られてきた。
 若い頃は、受験教育を批判し芸術を志望して受験校ではまともな扱いをされなかった。落ちこぼれて、まともな就職先もなく、冷たい視線を浴びてきた。

 競馬をやることで世間から偏見の目で見られた。競馬の仕事をしたことでいろいろなことで徹底的に侮辱され差別された。血統をやるとむかしの競馬サークルの中ではまことに不思議なことに冷ややかな目で見られた。誰もやらなかった未開の分野である配合論、配合史を書くとますます理解されなくなった。

 競馬以外の世界で、実務家としてきちんと仕事をすると、わたしの多面性はますます際立った。在宅勤務で平日の午後に毎日のように出かけると、さらに徹底的に不審者扱いされた。

 わたしのすべての側面をしっている人、理解してもらえてる人はひじょうに少ない。いちいち説明するのもめんどうだし、説明しても分かりにくいらしい。

 わたしのこの人生のテーマは 極限まで 自分の持てる可能性や自由を 追求し拡張し表現することかもしれない。自分を表現して理解されたいという欲求を少しでも満たすには、インターネットのホームページはステキな世界だと思う。

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 いつも散策していた

流山のわたしの遊び場。いっぱい散歩して自然を吸い込んだ。いろいろな原稿の発想が浮かんだ場所。写真外の左手の雑木林にオオタカがいるとかいないとか。キジも山鳩もタヌキも野ウサギも、わたしの借家の窓の下にいっぱいいた。大人も子供も誰も(わたし以外にもう1人だけ散策者がいた)、駅ができたら地価が上がる話はするが、こういう自然の中を散策して、自然を満喫しようとしないことがわたしには不思議だったが、世間から見ればわたしは泥棒狙いか何かでほっつき歩いている不審者で(町の有力者たちが頭がおかしいと言うK氏が、そう言いふらすのを、信じる人がいっぱいいた)、わたしから見れば世間は無味乾燥すぎる理解力のない人の集まりだった。後に、このへんの広大な原野は「おおたかの森駅」駅前として化けて消滅した。江戸時代は、幕府が欧州からもらった馬を育てていたのも、この少し東で、その碑があった。

 火星を見ていた


2002.11→ 2006.2. 千葉東葛地方最後の田園風景を3年半、満喫する。
ここは、オオタカが生息していたし、キジバト、キジ、野ウサギ、タヌキ、 メジロ、ウグイス、ムクドリ、カラスなどが、家に遊びにきたが、つくばエクスプレス開通で、再開発される。

2004.10 TVの連続出演 を人を介して誘っていただいたが、恥ずかしいから丁重にお断りする。(断って、もったいなかったな。申し訳ない。今は、もう出るのに遠慮はいたしません)。 兄弟3人、全員、本や新聞や雑誌で活躍したが、
全員TVから誘われて、TVに出演したのは弟だけというのも、変人兄弟か。


2004.12.31 ホームページケヤキの向こう」をup。


1999.8 から、2005.2 まで、病氣の連続。軽い脳梗塞2回。1回は言語野マヒで1週間、まったく喋れず。2日間全然立てず、やっと這ってトイレに行くだけで、横になって布団かぶって寝ているだけという強度のぎっくり腰が4回。ヘルペス1回。マイコプラズマ肺炎が誤診で風邪とされ39℃の発熱2週間が1回。慢性外耳炎で週に1回耳鼻科に通院を5年続ける。
 老眼とパソコン近視の進行で常時メガネかけるようになる。流山で井戸水使っていたら猛烈な下痢の病氣が1回。壁にペンキ塗って2日目の家に引っ越して、ぜんそく様のアレルギー。杉林の隣に住んで、猛烈な花粉症。と、これだけやって、3つの仕事を全部、休まず続ける。

   ぎっくり腰の時は、横向きに寝ているから、ノートPCを横倒しにして新聞
  の原稿を打っていた。校正は、横の壁にゲラ刷りの紙を当ててやるが、さすが
  に量は減らして仲間に回した。立てないときは、便座に座るまでに這い上がる
  のに3分くらいかかるが3日目には立てるものだ。最後はウツになったが、
  ホームページを作って氣分よくなって、そういう状態も忘れることができた。
  これだけやると、精神的に少しは進化?するし、不思議な体験もしたりする。

   病気して空気清浄機買ったり、サプリ飲んだりしたのを契機に、持ち物の好
  みが全部変わっていく経験をする。徹底したネット検索と、ネットショッピン
  グの時代のおかげだ。新興国景氣で相場で大儲けして、予想は快調。メルマガ
  の文体も変わる。借家を契約解除されたのを契機に、一度は住みたかった中央
  線沿線へ住もうと決める。


2005.3 メルマガ 「ホースレター」 の発行元を、競馬通信社から笠個人に譲渡変更。「ホースレター」とはメルマガのために取っておいた、わたしにとって夢のタイトルだった。譲渡変更した2週間後に、規約改正で、譲渡できなくなった。滑り込みセーフの感動で泣けてきた。(青い字はクリックするとジャンプします)

2005.4 ケータイ・メールマガジン「赤い血の◎」を発行。




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 simple is best 立川の昭和記念公園の1本の樹



 2006 2006年の阿佐谷ケヤキ並木



 おまけ付きで遊びまくり 相模湖でモーターボート遊び




2006→ 2008. 中央線沿線の公園や湖や町や有名店舗を、延べ4000時間、始発の電車が多い三鷹を起点に、予想法を考えながら、雨の日以外は毎日のように歩き回る。わたしが知るかぎりでは、たとえば、吉祥寺や阿佐谷の、最も文化的で人間的な、すばらしい時期の、終末期だった。
「プロフィール」にも書いたが、20代の仕事、30代の出版社巡り、40代の在宅 work を始めた東葛地方を起点にした首都圏一円巡りなどのおかげで、関東一円は、ほとんど全部知り尽くしたことになる。まあ、それであちこち動くから不審者だという人も増えたが。


2006.7 から デイリースポーツ日曜版に担当曜日が移動し、タイトル名を変更し、血統予想コラム「笠雄二郎の血統競馬」を連載中。

2006→ 2007. 血統マニアの〈チーム4分の3〉の人たちと一緒に、ホームページケヤキの向こうの「血統論」を 完成させる。(青い字はクリックするとジャンプします)


2007.10 3年間、中国のペトロチャイナを筆頭に、新興国相場を本氣で仕掛けていたが、ペトロチャイナは、高値の1日違いで総利食い。新興国相場で、生涯3度目の大相場での勝利を得る。
翌年のリーマンショック時に、苦手の商品相場を仕掛け、これは敗退。


2007.10→ 2009. 鉱物の美石結晶を何百万円投じて蒐集していたが、宗教と間違える人が多くて、腹立って、人にもらってもらったり、池に投じたりして、ほとんど手放す。この頃、日本の文化風土は、消滅の方向へ向かっていっていた。



2008 AUケータイの競馬コンテンツを何回か書く。

2009.11 「夕刊デイリー」廃刊。朝刊のみになる。

2009.11 町内の商店街の人たちが、昼間ぶらぶら出かけるのを不審がって、尾行したり、つきまとうから、警視庁と相談するが収まらないし、なぜか倍返しに ひどくなる。向こうが違法なのに、不思議なことに、こちらが不審者扱いされる。

2010.2.7→ 2014 ツイッターで競馬クラスタと交流。他の血統論者である五十嵐理論やケン・マクリーンや吉沢譲治を切る。



2011.3.11 大震災、原発爆発----------------------------------


 setagaya 30代に住んでいた世田谷の歩道の落ち葉



2011.5.20 電子書籍の『血統論』書き下ろし、初版と、『サラブレッド配合史』第4版を、栗山求氏に誘われた href="http://www.miesque.com/">血統コンテンツのポータルサイト「血統屋」 から大急ぎで発行。あまりに急かされるので、表紙の写真をセピアにする暇がなかったのはわたしのセンスのせいではない。

2010→ 2011.6.5 ? 22年ぶりに囲碁を再開。1年で勝率9割で、アマ2段から一氣に5段になった。週に2回通い詰めて腕を磨いてくれた三鷹道場が突然、マスターの自殺でなくなる。なんで!? 自殺するような人じゃないと思うけど。打つ場所がなくなるじゃないの。



2012.9-10 電子書籍『血統あれやこれや1985年復刻版』と『週刊競馬通信80年代血統コラム復刻版』を、「血統屋」から発行。

2012.10 ホームページ「ケヤキの向こう」が、毎週「日記」に最低1枚更新していた写真の byte も含めてup通算3000万字(6000万 byte)を超えたので、これも1冊の本とすると凄い頁になる勘定になった。


2012.10.10 〈まぐまぐ〉から、 有料メルマガテクニカル・チャートで株の天底やトレンドがズバリ」を発行。(青い字はクリックするとジャンプします)

2012.10.17 40年もの歳月をかけたライフワークである枠目論をDLMarket
から発売する。『サラブレッド配合史』、<ケヤキの向こう>、『枠目論』と、自分が目標にしてきた3大著作が40年かけて完成する。

2012.12.22 〈まぐまぐ〉から、 有料メルマガ重賞・メイン全馬の軸馬指数」を(まだ試作段階だったが)発行してしまう。
 これが、予想法の集大成となって、前代未聞の予想となることを願う。

2013.4 メルマガの、競馬研究家・笠 雄二郎の「ホースレター」ですが、血統研究家 → 競馬研究家に題名を変更。
「赤い血の◎」 → 笠雄二郎の「今日の一言血統論」 に題名変更。

2013.4 体重78kgまで肥満する。

2013.7 gooブログ を、ジャンル別に、3つ同時に始める。




2013.11 19年間連載してきた「デイリースポーツ」のコラムを、超絶好調なのに、1000回記念でデスクと盛り上がった翌週に、サッカーから移籍してきて、競馬を理解できていないという恐るべきレース部長から、からかい、冷やかされながら降板を通告される。ねぎらいも何もなかった。わたしの『サラブレッド配合史』は読んでない人。岩川隆、阿部譲二、江夏豊、平尾昌晃の次はわたしの番だった。そして誰もいなくなった。

2013.12 デイリーの降板決定後7番勝負 をプレッシャーの中で完遂する。「デイリー」に、7回全部を掲載 しています。

2014.2 「サラBLOOD! vol.2」(POG回顧)、
  「サラブレ」( Lady Josephine )と、単発原稿掲載。


2014.3-8 月刊競馬誌「サラブレ」に、平明な血統論「血統表の見方」を連載する(全6回、計21p、血統表合計71枚)。
 世界中の血統論を読んできたつもりだが、ここまで、あらゆるファクターを包括的に、重要なことだけを簡潔・平明に書いて、しかも本格的な血統論は、海外の多くの古い本から読んできたが、世界でも初めての試みだと思う。日本にはもちろん存在していない。自身は、『サラブレッド配合史』と並ぶ、血統論の生涯の会心作 だと確信している。


2014.3.29 自宅で毎週土曜に、私塾血統&予想塾」を開催(忙しいときは休)。
 塾です
こんな部屋でやっています。また、再開しますよ。


2014.7 鶏卵大の鼠径リンパ腫になるが、大病院の紹介状を断り、飲食物で治す。

2014.8.8 DL Market から、『AJG予想法』を電子書籍・PDF版で出版。

2014.9 相場でもうけて(相場の損益表は「株式テクニカル・チャートの研究
  に掲載)、PC3台を、XPから7へ、一氣に移行する。

2014.9 有名コンテンツ・サイトから予想掲載の話を頂くが、予想をする木曜に長文の宣伝メルマガを書かないといけないので、「軸馬指数」に専念したいから、またの機会にしてほしいと、丁重にお断りする。半年後くらいに、そろそろいいかなと思ったら、サイトがなくなる。

2014.10 メルマガ「軸馬指数」を、JBISの許諾を取り血統表を入れて、菊花賞頃から本格的に徐々に新形式に更新して専心・注力する。

2015.2.2 DL Market から、『時計理論におけるスローペースの簡単補正法』を電子書籍・PDF版で出版。

2015.(2.11), 3.12 競馬通信社の〈メルマガ「週刊競馬通信」〉(15名)に参加して、「競馬なんでもデパート」 の 連載を開始する。

2015.4.2  KADOKAWA/エンターブレインのムック Mook、
 『POG・クラブ馬選びに役立つ 走る馬の見方がわかる本 』に、
 前年、月刊誌「サラブレ」に6回連載した「血統表の見方」が、1回にまとめて収載される。生涯に4回も血統論を書いたことになる。
 『配合史』、ホームページ、ミエスク、サラブレの4回です。
 4月3日に、アマゾン約200万冊中、117位の売り上げを記録する。

2015.4.17 DL Market から、『G1データ・最強の発想』を電子書籍・PDF版で出版。ついに、やっと、<予想法4部作> の出版を終える。

2015.4.24 「詩集」に「ラベル」を掲載。(青い字はクリックするとジャンプします)

2015.5.5-2016.2.9 宇宙と雑学の話 」の、終盤以外の形をまとめる。



2015/6 2011年に原発が4基並んで爆発という凄い経験をする。それが機になったのかどうか、それからの4年で、書籍8冊、大苦労のムック1冊を出版、有料メルマガを3つ発行し、ブログを3つ、ホームページのコンテンツを4つ、新たに世に出す。競馬私塾を始めて、鶏卵大の鼠径リンパ腫を治療し、体重を20kg減量する
 ここ3年で、同世代の親しい仕事仲間数名と、2人の親しくしてくれた従姉を次々に亡くす。

(2013.4.15)─2016.1.25 コーヒー、酒、タバコ、炭酸飲料、スポーツドリンク、遺伝子組み換え植物、ムダな着色料や保存料、はとっくにやめていたが、コメ、パン、コーン、ジャガイモなどのナス科植物、肉、魚、牛乳、乳製品、きのこ、昆布、4白(精製塩、白砂糖、白米、精白小麦)、異性化糖、人工甘味料、豆腐、を断って、1日1食で、体重を78kgから58kgへ減量成功。
 果物と野菜しか食べない、ほぼベジタリアンになる。


2015.11 札幌馬主協会の「北の蹄跡」に平明な血統論を書く。
 年が替わって2回目を書くはずが、初回の恥ずかしくなるほどの平明な血統の解説が、難しすぎると難癖付けられて、降板する。あれ以上、平明に書く方法は、世界中探しても、逆立ちしても、有りえない。わたしは小学生相手の評論を書いて生きてきたのではない。


2016.2 体重78→58kgへ、3年で20kgの減量に成功。

2016.4.19 メルマガ「重賞・メイン全馬の軸馬指数」を「笠の血統批評と全馬の「軸馬指数」」に改題。

2016.10.2 「軸馬指数」は12カ月連続で、どの開催終わっても通算成績が軸馬連対50%を一度も割らない記録を達成した。

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2016.7 法律データベースの校正チームのチーフの仕事が、同じチームのチーフをずっと独りで継続してやったのは31年、この世界で2番目の長さを記録した。

2017.1.29 『G1データ・最強の発想』の2017年版を出版する。


2017.2 前年に年に1500回隣人に起こされながら無休で大量の仕事をしたせいか急性腎炎。1984の腎臓結石に続き、生涯で2回目の仕事病欠。血液検査でとんでもないほどの凄い数値が出て、膠原病やガンの疑いまであって大病院の検査入院の紹介状をもらったが行かず。仕事しすぎたせいもあると見て、まず眼鏡屋に行ってメガネを検眼して、老眼と乱視の度を上げて、ネットで腎臓内科の町医者を見つけて行って、慈恵大病院にいた名医だったのが幸いし、薬なしの食事療法だけで全快する。

 闘病中に、便が毎日血や粘液やら、黒い水様便でたいへんなことに。大腸ガンと自己診断して、腸内細菌の研究を加速し、酪酸菌と乳酸菌を大量に飲んでいるうちに症状は消滅した。仕事仲間は同時期に大腸ガンで人工肛門にしていたから、わたしは死ぬ氣で自分で闘病した。失敗したら死ぬだけだから。

2017.8 鼠蹊ヘルニアを患う。隣人が毎晩、何度も起こすので、110番して、警察官に真摯に被害を救済してもらったら、警察沙汰はいけないから賃貸借解除だ、居座っているので損害賠償だという、わけのわからない大家の弁護士(なぜか隣人と仲が良い)からの訴状ラッシュと、18カ月も独りで戦い続けながら、「軸馬指数」の軸の年間連対49.5%を達成。

2018.6-12 川越に2回目の家を購入して移転する。社員並みのアルバイトも含め、ちょうど50年働いたから、哀しくなるほど、かつての文化的な世界とは、ほど遠くなった編集界に嫌氣がさし、校正の仕事もパワハラ受けて減らされるので、そうか、もう仕事減らせばいいのだと氣付き、競馬と相場を中心の生活にし、年末からは、受給延期していた年金も受け取ることに決める。


 郊外へ
1日バス2便、下り3便という、交通難民へ

2018.9 引っ越し後の戸建てのあれやこれやで忙しく、少食のカロリー不足で再度、腎臓に来て、また食事療法で全快。こういう病氣になると、校正減らすせいか、いつも予想は好調になる。秋に重賞連続19戦で、◎の連対84%を記録する。

2018.11 売主の不動産屋がメチャクチャずさんな設備報告書を書いていたので、東京都と埼玉県の不動産監督課に電話して、売主の瑕疵担保責任で10箇所の修繕をやらせ、点検で塀の上を歩いていて舗装道路に仰向けに転落して、左のメガネにヒビが入りフレームが曲がり失神するが、全身無傷という奇跡だった。

2018.11.25 or 26 20年来のホームドクターで音楽、映画、文学の話がほとんど合致する白山の中地先生(東大出てケイシー療法の医院をかつて四谷で、日本で最初で最後の開院をしたという奇人)が、ふとんに入って寝たきり急逝と葉書くる。わたしに理解ある名医と、芸術の話し相手を失う。やれやれ。

2019.4 33年続けてきたTKCのLEX/DBの裁判判決全文DBの校正の仕事が(無能な人たちの折衝で)終わり、校正は減らし、株主会員のまま居残って、得意な公文書や、好きな地理を生かせるJRの駅ハイの校閲など、少量だけやることにする。受け取り延期で増やすしかなかった年金主体の生活に入る。新橋−横浜間の鉄道完成時の運行ダイヤの間違い、平成天皇の年表の校閲などで致命的誤植を多数見つけて活躍できた。

2019.6 イトーヨーカドーのネット・スーパーを利用していたが、6月に店仕舞いして撤退する。交代で7月からヤオコーがネット配送を始めて、買い物難民になるところが奇跡的に助かる。

2020.1 新型コロナが流行----------------------------
 ということでネット検索の日々。抗エイズ薬や抗エボラ薬を治療に使っているという報道で、最初は驚かされた。漢方の生薬で、ほぼいいけそうだと認識する。
 自粛ブームで東京に行かない日々。家にいることが増える。

2019/4 ここには書かないが人権侵害のようなことを平気でやる人が多いので、自治会を辞める。ゴミ掃除しなくてもゴミ置場にゴミは出せるという判例がある、と言ったのに、ゴミ当番だけは回ってくる。

2020.4 突然、ヤオコーがウイルス騒ぎの品不足を理由に配送を休止するが、ごはんの定期配送屋と、おかずの定期配送屋を閃いて、奇跡的に買い物難民を回避できた。長い間、食べなかったコメが再び主食になる。

2020.7 PCR検査の曖昧さ・感染症に適切でない、が言われ、死亡者も減り続け、徐々に真相は平準化していく。でも、世界的に病人が減る中で、マスクした子供の机がプラスチックで囲われたりして、乱暴なやり方で、かつての地球ではなくなっていく。


 入賞 
2020.12 メルマガ「笠の血統批評と全馬の「軸馬指数」」と「ホースレター」が、揃って、読者推薦数で まぐまぐ大賞2020 の、「趣味・娯楽部門」の5位と3位に入賞する。「軸馬指数」は内容も成績も破天荒で、レベルアップできたから、4代著作と言えるようになったと思っている。

2021/5 校閲の仕事を、基本的に終わりとする。42年間、一生懸命やってきたが、時代的にラッキーでもあった。

















◇出版物の生涯の会心作は、「著書」と「日記」に、メルマガの会心作は
  「メルマガ」に、予想コラムの会心作は「予想論」に、まとめています。



わたしの予想の理想郷は、全ファクターの統一理論の完成です

 (血統論、レイティング理論、時計理論、
   相馬眼、調教観察、データ解析、単純出目論、枠目論、
   能力指数論から、独自の予想法など、
   ありとあらゆる方法論を駆使できるのは、地球上でわたし以外に見かけたことがない





 2004年か 2004年



 ◆これで、受験校でアホバカ3兄弟と教師に言われ続けてきた3兄弟で、28冊
 出版した。アホバカ3兄弟の新聞や雑誌執筆は、数えるのは、とても不可能だ。
 学校の建学精神は書かれている言葉はりっぱだったが、教師は意味を理解してい
 なかった。何回、あるべき教育理念を言っても、教員室で髪の毛引っ張って吊し
 上げられた(笑)。

 受験勉強を拒否して、好きな本ばかり片っ端から濫読したので、独創性が失われ
 ることはなかった。


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ここ、欅の向こうに舞い降りたすべての人に、幸福と発見の日々が訪れることを熱く願っている。

人生のいろいろな経験、出会い、感動、障害、失敗、挫折、遠回りを、すべて糧として生きてきた。
わたしが出会った すべての人、 芸術作品、馬や樹や、そして地球や宇宙 …、 あらゆるものたち、 そして 訪れた困難にも、 いつも、どこかから誰かから、タイミングよく もたらされる幸運にも、 心より感謝したい。

そして 今日も、自分を信じ 目を輝かせ
青春の夢を抱いて この人生を歩み続けている …。(続く)













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スパムメール送信目的の、ホームページいたずら自動巡回ロボット対策のため、◎を@(半角)に入れ替えてください。◎の直前と直後のスペースを削除して詰めてください。
カットアンドペーストしてメールをお送りいただく際は、お手数ですが、以上の加工をお願いします。


 (メルアドの、天皇賞馬カミノテシオは、ハイセイコーの宿敵で、
  わたしに競馬サークルに入る人の縁をつくってくれた。馬名に尊敬するヨー
  ロッパの名馬産家フェデリコ・テシオの名が入っているのも美しい。
   桜花賞とオークスをともに大差で逃げ切ったテスコガビーは、わたしと深い
  縁のあるテスコボーイの代表産駒で、POGで最初にとった愛馬だったが、
  哀しいことに急逝してしまった……

  このホームページを、わたしに夢と自信を与えてくれた彼女に捧げたい。)

 華 麗 

 根性 
よく考えたら、ムーティエとモンタヴァルは兄弟だ


いちおう、セキュリティ上、どこでも言われていることを書かせてください。
・html 形式のメールはなるべく送らないでください。outlookはデフォルトでは html形式になっています。
・初めての方からのメールに添付ファイルが付いてくると開けません。
・題名にご用件や御名前を日本語で書いてください。でないと受信時に自動的にゴミ箱に行ってしまう可能性があります。
・迷惑メールらしきものは受信できない設定になってます。メールの返信がない場合は、上記に従って送り直してください。
・あなたのPCがウイルスに感染すると、ご自分では自覚していなくても、ウイルスメールを世界に向けて自動配布することがありますから、ウイルス・チェックをしたほうがいいと思います。


わたしに知識を尋ねないでください。わたしは認識で生きているのであって、知識もあることはありますがそれで生きていく氣はむかしからまったくありません。誰もやらないことをやろうとして生きてきたからです。知識でしたら図書館やネット検索で調べてください。
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